番外編『Long Long Distance』1

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番外編『Long Long Distance』1

 夏の終わりの朝、天宮漣はいつものごとく、自らの職場であるところの地上数十メートルの天空にいた。  彼の職業は鳶職人。高層ビルの半端ない高さの工事現場で、鉄骨や足場を組み上げることが主な仕事だ。  しかしこのところ、そればかりでもなくなってきていた。  「ゴト着」と仲間内で呼ばれる鳶装束を身に着け、安全靴を履いた「臨戦態勢」にも関わらず、すぐにでも現場に飛び出してゆきたい気持をぐっとこらえて、彼はプレハブの詰め所の片隅にしつらえられた事務スペースに座る。 「職長、頼んます」  すぐさま年配の作業員が『安全日誌』と書かれたノートを差し出してきた。その表紙は油と錆で汚れ、よれよれになっている。  「了解っす」と受け取り、机の上に置く。そこにはすでに『巡視チェック』『ヒヤリハット』『事故報告書』『KY(危険予知)活動報告』といった書類が、他の作業員たちによって乱雑に重ねられている。  慌ただしい現場の作業の中で走り書き……というよりも殴り書きされたそれらの書類をパソコンでまとめ、元受け業者にメールで送るのが、漣の朝一番の仕事となっているのだ。  17歳で鳶を志した頃は、まさか自分がパソコンを使って仕事をするようになるとは夢にも思わなかった。  この仕事に就いて7年。仕事熱心な漣は、気がつけばどの現場でも「職長」や「頭」と呼ばれるリーダー的な役割を任せられるようになっていた。立派な中間管理職である。  24歳という若さであるから、当然、部下は年上の方が多い。そんな中での振る舞い方にもすっかり慣れた。年長者への敬意をそれなりに示しつつ、だからといって若造だとナメられないように……。元々暴走族の幹部だった彼にとって、そうした振る舞いは、さほど難しいことではない。  ただ、立場が重くなるほどに増える事務仕事には少しばかり手を焼いた。  ことに安全に関する事柄は日々細かく記録し、元受け会社に報告せねばならない。万一事故が起こった時には自分たちの会社を守ることになる大切な記録だが、そのチェック方法や様式は、法律や元受けの方針によってたびたび変わるから厄介だ。  なまじ若く勘の良い彼は、どんなやり方ももすぐに覚えてしまうものだから、60代の親方からすっかり頼りにされ、あれこれと頼まれるわけなのだった。
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