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元々本人があらたまった外出を好まないため、将孝はこれまで、どうしても妻帯が必要な公務や集まり以外に妻を連れて行くことがなかった。
だから奈津乃は今回もそうした用事だと思ったらしい。何の警戒心もなくついてきた。そうして、わけがわからないまま夫と共に、集まってきた子供たちに食事を配り、見事、「はまった」のだった。
以来、週に3回、ボランティアとして朝早くからひとりで(運転手付きではあるが)出かけて行く。これは、箱入り娘として育ってきた妻にしては画期的なことである。
しかも、包丁など握ったこともないお嬢様育ちの彼女が、50を超えて果敢にも調理にまで挑戦しているというのだ。なかなかに筋がいいとスタッフが話していた。こうしてあたたかく見守ってもらえるのは若干、大臣の妻の威光を借りた面もあるが、まあ、とにかくよかった。
そして呆れたことに、峻介のことは文字通り忘れてしまったらしい。この半年ばかり、食堂で出会った子供たちのことを楽しげに話すことはあっても、息子の名前が彼女の口に上ることはない。いや、もちろん母親なのだから、本当に忘れてしまうはずもないのだろうが、出て行った息子のことを考える余裕もないほど、充実しているといったところか。
峻介には申し訳ないが、結局妻があれほど過剰な愛情を息子に対して注いだのは、身近にその対象が彼ひとりしかいなかったからという理由に尽きるらしい。
(まあ、そうした点は伏せておいて)、奈津乃の現状を峻介に話すと、彼も心から安堵しているようだった。やはり、母を捨てて行ったという負い目は息子の中にも残っていたのだろう。
そろそろ漣や大志を連れて彼女に会いに行っても良いのではないかという話も父子の間で出たが、まあ、当分は止めて置こうということになった。
せっかく分散した過剰な愛情が、今度はあの2人に集中するに違いないことが、目に見えていたからである。
とはいえ、なんだかんだで将孝は妻が好きなのだった。何しろ彼女がいなければ、大臣として政権を担う今の城築将孝はなかったのだ。
彼女があろうことか、与党とは思想的に何万光年も離れた革新系野党の党員である青年に恋をし、与党の重鎮である父親に、あの人と結婚させてほしいと頼み込むことがなければ……。
あの蛮勇が、今の自分の始まりだった。そう考えると何だか愉快になる。
あれほど痛快な女性はいない、と、今でも彼は思っている。
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