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「お帰りなさい、峻介さん」  玄関に入ると、待ち構えていたように出てきた母の奈津乃が、華やいだ声で峻介を迎えた。 「もうすぐお父様も帰っていらっしゃるわ。家族そろって夕食なんて本当に珍しいわね」  52歳の母はその風貌も立ち居ぶるまいも、まったく「政治家の妻」らしくない。生活の苦労というものを感じさせず、いくつになってもどこかしら女の子のようだ。  実際、これまでの人生で苦労らしい苦労というものを、ほとんどしていないのだと思う。  城築奈津乃は、古箭家の三女として生まれた。  言うまでもなく、祖父は戦後最大の名相と言われた総理大臣の古箭歳三。亡き父も、いくつもの政府要職を務めた大物政治家だった。長兄や次兄も大臣を歴任しているし、姉たちも政治家に嫁いで立派に妻として務めている。なにしろ政界の5人に1人は古箭家になんらかのつながりがあると言われるほどの名家である。  なのにこれだけの家に育ちながら、彼女自身は政治にまったく興味がないらしい。夫と息子が政治家でありながら、彼らの仕事には関わりを持たず、天真爛漫に生きている。  おそらくは末っ子としてひたすら父親に可愛がられて育った生い立ちが原因しているのだろう。 後に父が後妻を迎えて彼女にも腹違いの弟が出来ることになるのだが、それは彼女が成長してからのことである。  そして彼女の夫……峻介の父もまた、昔からそんな母に甘かった。代議士の妻としての役目を果たそうとしない母のことを周囲に諌められても「好きにさせておけ」と、いつも鷹揚に笑っている。  確かに父が現在、異色の人気代議士として国進党に在るのも、元はと言えば母のこの天真爛漫な性格がきっかけだったのだから、彼が母のこうしたところに一目置くのはわからないでもなかったが。  とはいえ、しかし……。  父は独立独歩の人である。妻に世話を焼かれることを昔から好まない。自然、母の愛情と興味はひとりしかいない息子に集中することになるわけで。 「峻介さん、良いお話がまた、こんなにたくさん来てるの。写真だけでも見てくださらないかしら」  リビングのソファに腰を降ろしたとたん、立派な革表紙がついた写真の束をどさりとテーブルに置かれ、峻介は小さくため息をついた。
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