第1章 「未来への誤算」

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 消毒液の匂いが漂うこの部屋の天井を、私はもう幾年も穴が開くほど見つめ続けています。  看護師さん同士がぼそぼそと話す声は子守歌のように聴こえ、かちゃかちゃと食器を運んでくる音は、朝なのか昼なのか夜なのか分からない私にとって、今はお食事時なのだな、と唯一時を感じる合図となっています。    ここにこうしていると、初めからずっとここに居るのではないのだろうか、と錯覚するほどです。今までの八十八年の人生こそが夢物語で、私はここでずっとそれを眠って旅してきただけなのではないのだろうか、と。何分もう意識は朦朧として最近のことは、はっきりと思い出せなくなっているのです。 「中田さん、フミさん、お昼ごはんですよ。ベッドを起こしましょうね」    やはり私の読み通りです。この病院で一番愛想の良い看護士の美和さんがいつもの丸々とした福顔でベッドを起こしてくれました。私が食べるのを嫌がり、首を横に振って抵抗しても、彼女はちっとも嫌な顔ひとつしないのです。私はこの歳になって初めてこのような職業の方々に心から尊敬の念を抱きました。  昔、私もお姑様の介護を経験したものです。けれど、あの頃の私はこのように立派にできていたでしょうか。お母様のことを考える度に胸が締め付けられる思いになります。     「少しでも食べないと、体力持たなくなっちゃうからね。ああ、そう、今日お昼過ぎから娘さん来るって言ってたよ。フミさん、ちょっとでも食べて元気なところを娘さんに見せようね」    美和さんは私の口を開けさせるのが本当に上手な方です。少し前には食べられていたお粥が、いつの頃からか泥を飲み込んでいる感覚になりました。そこからは次第に食べる意欲を失なっていきました。    このままでは体力が衰えていくから点滴をしましょう、と言う医師に私は首を縦に振らず、抵抗ばかりしていました。思えばそれはまだ私に、自力で生きる、という執着心があったからなのでしょうか。死、に対して私は怒っていました。激しく、激しく怒っていたのです。それから私と、死、との対決の日々が続きました。    死、は私を優しくいたぶるように苦しめました。医師と娘家族を使って時折私に誘惑を仕掛けるのです。娘家族は日々衰弱してゆく私を見て涙するのでした。私は気丈に意識を保っていたつもりでした。
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