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ゆかりは純一の父である雄三と、二年前から同居している。雄三の妻、つまり純一の母が四年前に大腸ガンで亡くなり、そのあともしばらく雄三は旭川で一人暮らしをしていたのだが、もともと足が不自由であった上に、さらに妻に先立たれてからは物忘れをするようになったらしく、電話をするたびに「鍵をなくしたと思って一日中探していたらジャンパーのポケットに入っていた」とか「やかんを火にかけているのを忘れて底を焦がしてしまった」などと聞くようになり、心配になって札幌に呼び寄せたのである。
しばらくはなんということもなく、近所の老人クラブやら温水プールの老人向け教室やら、あちこち出かけて札幌の暮らしにそれなりに馴染んでいた雄三だったが、ある日凍てついた雪道で転んで足首を骨折してしまい、それ以降ますます足が不自由になってしまった。八十歳にもなり、あまり外出しなくなったこともあってか物忘れのほうも加速してしまい、一人で留守番させておけなくなったのだ。
近頃では一日中探し物をしていることもしょっちゅうだし、先日は財布がなくなったと言い、ゆかりを妙な目で眺めて、あんた盗ったかい? などと言い出した。財布は結局雄三の枕の下から出てきたのだった。もはやただの物忘れではなく、認知症の症状が出てきたのかもしれない。
「お義父さん、足が不自由だから要介護認定がおりててね。最近は週二回デイサービスに行ってるのよ。助かるわよ」
ゆかりは心から言った。今日も雄三のデイサービスの日である。入浴やお昼ご飯、おやつの時間もあり、朝から夕方まで預かってくれるのだから、老人の面倒をみている身にはとても助かるのだ。こうしてちょっと友人とランチする時間も捻出できる。
その後も学生時代の思い出話から共通の友人の近況、夕飯のメニューを何にするかなどとりとめもなくおしゃべりしているうちに時間が経ち、パンケーキはとっくに空っぽ、まりちゃんもさすがに退屈してぐずり始めた。
「あら、もう二時過ぎてるじゃない」
「おじいちゃん帰って来ちゃうの?」
「ううん、デイサービスは夕方までなんだけど、その前に息子が帰ってくるし、一応おやつ用意したりするから帰らないと」
甘いパンケーキはやっぱり胃がもたれる。二人ともなんとなく胃のあたりを押さえながら「食べ過ぎたね」と笑いあった。支払いを終えて店の外に出、まりちゃんに授乳室でミルクをあげて、お昼寝しそうだったらそのままベビーカーで寝させてもうちょっとぶらぶら買い物しようかな、と笑う翔子と別れてゆかりは駅に向かった。
ホームで電車を待っている時、ゆかりのスマホが鳴り出した。ポケットから取り出すと「デイサービスひばり」という名前が表示されている。ゆかりはあわてて電話に出た。
「蒲田ゆかりさんの携帯でしょうか」
「はい、そうです」
「お世話になっております、ひばりの山下です」
電話はゆかりも顔なじみの職員、山下さんからであった。雄三がおもらしをしたという連絡であった。
「今までにも少しおしっこをもらしてしまわれたことはありましたが、今日はいっぱい出てしまって……。雄三さんも自信をなくされてしまったようで、お話ししてご了解を得たので紙おむつをつけさせていただいたんですが、よろしかったでしょうか」
山下さんはまだ二十代で、やや敬語の使い方がおかしいところはあるが、真面目そうな青年である。若い人にそんな世話をさせたことが申し訳ないような気がしてゆかりは「まあ、それはすみません! もちろんです。あの、本当にすみません」
と答えた。
汚れた服はこちらで洗濯機で洗いますが、乾かす時間がないので濡れたまま袋に入れてお返しします、あと次回から紙おむつも持ってきてください、などという山下さんの声を聞きながら、ゆかりは何度もすみません、すみませんと電話口で頭を下げた。電話を切ったそのとき、ちょうどホームに電車が滑り込んできた。ゆかりはため息をついてスマホをしまった。
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