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つり革につかまりながらゆかりはもう一度ため息をついた。物忘れにお漏らしときたのでは、完全にボケ老人である。ボケ老人の介護についてはお向かいの村田さんの奥さんから色々と聞いたことがある。
村田さんの家では三年前までボケたお婆さんの介護をしていた。お婆さんは九十歳ぐらいだっただろうか。夏場に網戸になっていると、家の中からしょっちゅうお婆さんの大声が聞こえていた。たまに徘徊していなくなったお婆さんを探して奥さんや旦那さんが近所を探し回っていた。あとから奥さんに聞いたのは、お婆さんが徘徊した挙句二十キロ近く離れた隣の市で保護されたとか、スーパーでおまんじゅうをお金を払わず食べてしまったとか、入れ歯がなくなったので盗まれたに違いないから警察を呼べと騒いだとか、そんなような話ばかりだ。それでいて体はお医者さんが驚くほど健康で、調査員が来ると妙にしゃんとした受け答えをするのでなかなか要介護認定の等級も上げてもらえず、施設に入れようと思うと凄くお金がかかるから家で見るしかないのよぉ、ということだった。ちなみに三年前の冬のある朝、なかなか起きてこないお婆さんの様子を見に行った奥さんは、布団の中で亡くなっているお婆さんを発見し、思わずその瞬間ガッツポーズをしたのだという。
ゆかりはそんな話を思い出し、さらにもう一回ため息をついた。正面に座ってスマホをいじっていた足の太い若い女がゆかりをちらっと見上げた。
帰りに駅前のスーパーで買い物をして、ゆかりが家に着いたのは三時半近くだった。ほぼ同時に息子の健斗も帰ってきた。
「ただいまー」
という声とガサガサとジャンパーを脱ぐ音がし、続いて洗面所から水音とうがいの音が聞こえてきた。
「おかえり、今おやつ出すね」
と声をかけてゆかりは買い物袋から菓子パンを取り出した。
「やったー、メロンクリームパンじゃん」
キッチンに入ってきた健斗がガッツポーズをし、冷蔵庫から牛乳を出してコップに入れ、その場で飲み干した。
小学五年生の健斗は、夫の純一に似て背が高く、がっちりした体つきをしている。そのわりに性格は子供っぽく、まだ反抗期らしいものも来ておらず、ゆかりにも無邪気に小学校での出来事などを色々話してくれる。今もダイニングで菓子パンを食べながら、ゆかりに向かってお調子者のクラスメイトが給食時間に人気のお笑い芸人のモノマネをしたら向かいの席の女子が笑ってみそ汁を吹き出してしまったという話を延々と嬉しそうにしている。
周りの同級生のお母さんたちと話していると、五年生ともなれば男の子も体が大きくなり、思春期にさしかかってあまり親と会話をしなくなったり、エッチな本や動画に興味を持ったりしている子もあるという。それに比べれば、健斗は、図体はでかいけどまだまだかわいいもんだわとゆかりは思っている。
「あんまりおしゃべりしてるとバスケに遅れるわよ」
ゆかりが言うと健斗は
「やべ、これ食べたらすぐ行く」 と答えて残りのパンにかぶりついた。
健斗はミニバスケットボールの少年団に所属しており、小学校の体育館で行われる練習に週二回通っている。今日もこの後四時から六時まで練習の予定だ。
「そうだお母さん」
菓子パンを食べ終わり立ち上がった健斗がまだ口をもぐもぐさせながら言った。
「おれ、シューズが小さくなってきた」
「ええっ、また? 成長期って恐ろしいわね」
ゆかりは顔をしかめた。バスケットシューズ、数ヶ月前に買ったばかりなのに……。健斗の足は、二十三・五センチのゆかりの足をしばらく前に追い越して、今は二十四センチだ。
「じゃあ二十四・五センチだね。その次は二十五センチだ!」
と健斗は嬉しそうに言うが、たかがバスケットシューズだって年に何足も買わされたのでは高くついて仕方ない。
バスケットシューズが小さいということは、普段の靴や上履きもきつくなっているのだろうし、何足も買い換えるのは大変だ。
「わかった、じゃあ今度の土曜日にでも買いに行きましょう。そのかわり二十四・五でしばらく止まってよ」
ゆかりが言うと、健斗はにやっと笑って
「オッケー、オッケー。じゃあ行ってきます」 とスポーツバッグを抱えて玄関に向かった。
「行ってらっしゃい」
健斗が出かけると、またしばらくの間家の中は静かになる。このあとデイサービスの送迎車で義父の雄三が帰ってくるのは四時半ごろだ。今日の夕飯はカレーの予定だし、それまでに作って煮込んでおこう。ゆかりはキッチンで料理を始めた。
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