ラブ・レター

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『あなたがこれを読んでいる時、私はもうこの世にいないでしょう。だから私が何処の誰々なのか、などという無粋な詮索はどうぞお辞めになってください。何処の誰とも判らない私の想いをあなたに知って頂きたくて、この手紙をポストに投げ入れました。お許しください。どうぞこの述懐をお聞き届けになって、僅かでも心に爪痕を刻ませてください。 ある夏の日、私はあの人に恋をいたしました。あの人は町の古びた喫茶店でマスターをしていました。──斯く言う私は窓際に座って本を読んでいた根暗な人間です。──あの人は悲しげに笑う人でした。何処かに寂しげな影の着き纏う人でした。私はあの人のプライベートを知りません。喫茶店に行き、コーヒーを頼み、コーヒーを淹れるだけの、ほんの細やかな接触を持つだけの赤の他人でした。だからこそ私は知りたくなったのでしょう。どうして悲しげに笑うのか?あなたの傍にいる影は何者なのか?……一度自覚してしまえば、それは狂おしいほどの想いになります。己を焼き尽くさんと燃える炎になります。きっとあなたにも覚えがあるでしょう。胸を焦がす憧憬が、言葉にならない慟哭が、恋には時としてあるのだということを。 私は未熟だったのです。情欲に支配された肉体の囚人だったのです。恋こそが幸せの最たるものだと信じすぎた愛の狂信者だったのです。だから何も知らなかったのです。お許しください。どうか、憐憫の糸を垂れてください。 許されないとは解っていました。あの人には守るべき操があったのだと察していました。でも、私は許されたかった!この不義の先にも必ず幸せがあるのだと信じていたから、あの人に、周囲に、許してもらいたかったのです。この恋は真(まこと)のものだと盲信していたのです。 あの人は覚えているでしょうか?いつだったか私の爪を「綺麗」と褒めてくださったことを。自堕落で無能な私の爪を「幸せを描く指」だと言ってくださったことを。私にはそれが嬉しかった。あの人に恋する最後のだめ押しでした。 しかしもう褒めてもらおうとは思いません。もうお会いすることもありません。幼い我が儘(エゴ)を許されようと願うこともありません。この手紙にはあの人が褒めてくださったものを同封してあります。私にはもう無用なものです。どうぞこの手紙とともに大切に。 それではお体に気を付けて、どうかお元気で。ありがとう。さようなら』
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