【試し読み】わたし発、京都行き

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 麻衣子は京都が好きである。  といっても四十年の人生で実際に京都を訪れたことはない。  はじめて京都が好きになったのは十年ほど前だろうか。たまたまつけたテレビでやっていた旅番組の京都特集を見て、一目で京都にはまってしまった。  それからというもの、旅番組はもちろん、京都を舞台にしたサスペンスドラマまで必ずチェックしている。  石畳の風情ある街並み。燃えるような紅葉。輝く金閣寺。夕日に映える五重の塔。町家を改装したお洒落なカフェ。盛り付けや器にも品のある京料理。街の人々のはんなりと柔らかい京都弁もなんて素敵。画面に映る京都の風物を見るたび、麻衣子は感動のため息をつくのであった。  それから、隣町のデパートは結構遠くてめったに行かないけれど、一、二年に一度行われる催事の『京都物産展』には絶対行くと決めている。そこで漬物や八ツ橋などの食品やちょっとした和雑貨を買うのが麻衣子の何よりの楽しみである。先月も京都展が開催されたので、麻衣子はうきうきしながら老舗のじゃこ山椒と最近人気だというお抹茶バームクーヘン、それにちりめん細工の根付ストラップを買った。今もテレビの隣の棚に置いてある財布につけている、花柄のちりめん生地でできた熊のマスコットと小さな鈴がついた根付ストラップ。息子には「だせぇ」と言われたがかわいくて麻衣子はとても気に入っている。  そんなに好きなら京都に行けばいいじゃないか、と思われるかもしれない。  だが地方都市在住の主婦である麻衣子には、ただ京都に行くだけのことでもなかなかチャンスがないのであった。  子供が小さいうちは慣れない子育てで手一杯、京都旅行などしている暇はなかった。子供が大きくなったらなったで、平日はパート、週末は子供の塾だのイオンに買い出しだのと言っているうちに終わってしまう。夏休みや冬休みも、そうした日常の色々に加えて、夫や自分の実家に顔を出したり子供の部活があったりとなにかと慌ただしく過ぎていくのだった。結局一日中、ましてや泊まりがけで家を空けるチャンスなどないまま何年も過ぎ、いつのまにか四十歳になってしまった。  大学生やOL時代には友人と旅行を楽しむこともあったが、ソウルや台湾、グアムといった近場の海外ばかりだったし、国内旅行といえばディズニーランドやスキー・温泉旅行ばかりであった。  若い頃はまだ京都の魅力がわからなかったんだわ、と麻衣子はため息をついた。ああ、若くて自由な時間があるうちに京都に行っておけばよかった。  若いうちに京都に行っていれば。と麻衣子はぼんやりとした頭で考える。  京都に行っていれば、もっと何かが違っていたかもしれない。  容姿も収入も、何もかもごく平凡な会社員の夫と、勉強にもスポーツにも特に秀でたところのない平凡な中学生の息子。麻衣子自身だって、一日四.五時間、週四日程度のパートに行き、その他の日は掃除や洗濯、スーパーで買い物をしているだけの地方都市在住ごく平凡な四十歳主婦である。鏡を見てもほうれい線と白髪が気になり始めた平凡なおばさんとしか言いようがない。  ああ、どこまでも平凡な自分。ぱっとしない人生。  でも京都に行っていれば。と麻衣子は考える。  そうだ、若い時に京都に行っていれば、京都で仕事を見つけてそのまま京都で暮らしていたかもしれない。どんな仕事かって、そりゃ京都らしい仕事に決まっている。清水寺の参道のおみやげ物屋の店員とか、いや、先斗町でお洒落なレストランのウェイトレスとか、いや、それとも京都大学の近くの小さな書店なんていうのもいいかもね……。麻衣子はしばらく京都での自分の暮らしをうっとりと空想した。  そう、それに京都の人は「いけず」だっていうけれど、暮らしてみれば意外と親切で、近所のおばあちゃんなんかが地方出身の一人暮らしの麻衣子を何かと気遣ってくれるかもしれない。朝は家の前をほうきで掃きながら「おはようおかえりやぁ」と挨拶をしてくれて、夕方には「麻衣子ちゃん、これお食べ。美味しいえ」とやわらかな京都弁で言いながら「大根とおあげの炊いたん」とか「賀茂茄子の田楽」とか、そういうおかずをおすそ分けしてくれるかもしれない。 (続きは『すべては成り行きなの』にて掲載。全体3800文字)
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