せんがん

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 わたしが学生時代から付き合ってきた恋人の拓実は、どれだけわたしが結婚を匂わせても、なかなかうんと言わない。わかっている。八方美人で、その分、気が弱い拓実は、きっと家庭というものを持ち、わたしに対して責任を背負わされるのが怖いのだ。  しかしこの先、拓実と別れることになろうとも、わたしは仕事を辞めるわけにはいかないし、ましてやこの町を出て行くことも出来ない。年齢こそまだ二十歳そこそこではあるが、地方の私立大学卒、なんの取り柄も資格もない自分がそんな選択をしようものなら、その後、どれだけ大変な目に遭うか、よく分かっているからだ。 ――いいねえ、お兄ちゃんは。  わたしの呟きは、洗い物を始めた母には届かなかったに違いない。いや、仮に届いていても、早くに父と結婚し、平凡な主婦としてこの年まで生きていた母には、その意味は分からなかっただろう。 「行ってきます」  エレベーターを待たず、非常階段を駆け降りる。そのままマンションの前にある公園を突っ切ろうとして、わたしはおや、と足を止めた。  まだ八時前の住宅街は、それぞれの職場や学校に向かう人たちでなんとなく慌ただしい。そんな静謐な賑わいから切り離されたように、公園の砂場の脇のベンチに一人の女性が座り込んでいたのである。  年はわたしより二つ、三つ、年上だろう。通勤途中のような落ち着いたベージュのスーツに、小ぶりのバッグ。女の眼で見れば、すさまじく手間暇がかかっていると分かるナチュラルメイク。履いているのはいつだったか、兄の働くデパートのショーウィンドウに飾られていた、外国ブランドのパンプスだ。 小走りに公園を通り抜けようとするわたしに、彼女はうつむいていた顔をびっくりしたように上げた。しかしすぐにすっと視線を逸らすと、また自分の膝に目を落とした。 誰かを待っているのだろうか。こんな平日の朝一番に? そんな疑問がちらっと胸に浮かんだが、残念ながら急がねば仕事に間に合わない状況下では、赤の他人に関わり合っている暇なぞない。  彼女の様子を横目でうかがいながら、わたしはそのまままっすぐ公園を駆け抜けた。通いなれた通勤路を早足で急ぎながら、なぜか不意に一昨日の母の言葉が思い出された。 ――あちらでお付き合いしていた方と、駄目になったらしいのよ。  これで先ほどの女性が兄の元カノだったりすれば安っぽいテレビドラマだが、残念ながら世の中は小説や映画のように分かりやすくはない。しかしながらそう頭の片隅で苦笑しながらも、なぜかわたしはもう一度、母の科白を考えずにはいられなかった。 ――あちらでお付き合いしていた方と、駄目になったらしいのよ。  そうだ。あの時、わたしが感じたのは、ただの兄への羨望だけではない。あの瞬間、わたしは確かに兄に対して、微かな失望を感じたのだ。
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