せんがん

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 築二十年の五階建てマンションの3LDK。たった四畳半の部屋には不釣り合いに大きな鏡台は、兄がこの家に戻ってくることが決まったこの春、あわてて駅前の家具屋で買った安物だ。  あと十五分、と時計を睨みながら化粧を始める。その間にあわただしい足音が、二、三度、廊下を行き交ったかと思うと、ばたんと玄関ドアの閉まる音がした。  化粧ポーチをカバンに叩き込んで部屋を出れば、よほど慌てて飛び出して行ったのだろう。兄が自室にしている和室の襖が開けっ放しだ。薄暗い部屋の奧、大きな箪笥の引き出しが半ば開いたままになっているのを見やり、やれやれとわたしは溜め息をついた。  東京の有名私大を出た兄が、そのままあちらで誰もが知る有名企業に就職したのは、今から六年前のこと。そのときはわたしも両親も、兄のつつがない独り立ちを祝う一方で、「雄介はもしかしたら、もうこっちには戻らないのかもしれないね」と話し合いもした。 ――だったら、お兄ちゃんの部屋はあたしがもらってもいいでしょ。四畳半じゃ狭くってさ。 ――まあ、だけど、雄介の部屋は物が多いからねえ。その上、あの子が大学に入ってからの四年間、あたしたちも納戸みたいに使ってきたから、片付けだけでも大変よ。  いっそもう、そのままにしておいていいじゃない。  母の言葉の通り、長らく物置同然に用いられていた六畳間に、まさか再び兄が戻る日が来ようとは。おかげで現在、リビングの隅には、兄の部屋に詰め込まれていた古いゴルフバッグや健康器具が山積みにされているし、洗面スペースの大半を占めていたわたしの化粧品は、慌てて買った鏡台に引越しすることになった。 ――あちらでお付き合いしていた方と、駄目になったらしいのよ。  九月末の決算で遅くなった一昨日の夜、ありあわせのもので夕食をこしらえながら、母がぼそりと言った声が、ふと思い出された。 ――そんなことで? ――そんなことでって、早季子。……まあ、正直に言えば、お母さんも最初はそう思ったわ。けど雄介が決めたんだったら、しかたがないわよねえ。それにだいたいあたしたちからすれば、雄介が戻ってきてくれるなら、むしろありがたいと思わなきゃいけないんだから。  兄を東京の大学にやったとき、父や母は親族から「どうせならこちらの大学に行かせればよかろうに」と随分好き放題言われたらしい。それだけに母が何のかんの言いながら、兄の帰郷を喜んでいるのはよくわかる。  しかしわたしは温かな湯気を上げる味噌汁をすすりながら、もう一度小声で、「そんなことで」と呟いた。  兄の心の弱さに呆れたのではない。失恋程度で仕事を辞められる兄が、うらやましくてならなかったのだ。
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