せんがん

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 そうだ。あの時、わたしが感じたのは、ただの兄への羨望だけではない。あの瞬間、わたしは確かに兄に対して、微かな失望を感じたのだ。  東京の大学。誰もがうらやむ就職先。総合病院のただの事務員であるわたしとは比べものにならないほど華やかに見えた兄。そんな兄があっさりと「たかが恋愛ごとき」でこんな町に帰ってくるとは、わたしにはどうにも納得が行かなかったのだ。  先ほどの女性が兄の元カノだったら、という想像は、他ならぬわたし自身の願望だ。そう、テレビドラマのような安易な設定を嗤いながら、わたしはそんな陳腐な物語に憧れていたのだ。  集団登校の小学生が、横断歩道を一列になって渡って行く。けたたましくまたたき始めた青信号を前に、わたしは足を止めた。きゅっと唇を結ぶと、踵を返して先ほどの公園に向かって走り出した。  もしまだあの女性がいたならば、岡野雄介のお知り合いですか、と声をかけてみよう。「はい、そうです」と言われれば、「わたし、雄介の妹です」と名乗ればいい。もし違いますと言われたら? そのときは、彼女は隠し事をしているのだと思い込めば、わたしの気持ちは何一つ傷つかずに済む。  しかしながら公園に駆け戻ったわたしを待っていたのは、そのどちらの選択肢でもなかった。わたしが引き返すまで、ほんの十分もかからなかっただろうに、彼女の姿は公園のどこにも見当たらなかったのである。  あの女性が座っていたはずのベンチには、明るい秋の日差しがうらうらと降り注ぎ、鳩が一羽、餌を探してその傍らをうろつき回っている。どこか遠くの学校から微かに始業を告げるチャイムが響いてくるのを、わたしはまるで不条理な気分で聞いていた。
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