せんがん

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 結局その日、ぎりぎりに職場に駆けこんだのが悪かったのだろう。仕事の最中もわたしは些細なミスを連発し、ようやく終業の時間になった際には、どっと疲れ果てていた。 「どうしたの、岡野さん。らしくないじゃない」  苦笑して顔を覗き込んできたのは、今年勤務六年目になる嵜田さんだ。就職したときから、わたしの教育係をしてくれてきた彼女の笑みに、一瞬、今朝見た彼女のことを話してみたくなる。  しかし、なんと言えばいいのだろう。公園にいた女性が兄の元カノかもしれない、という想像をそのまま話したりすれば、よほどのブラコンかはたまた妄想ばかりするおかしな後輩と思われてもしかたがない。 「いいえ、なんでもありません。お先に失礼します」  足早に職場を飛び出し、わたしはわざと公園を避けるように遠回りをして家に戻った。あの女性があそこにいようがいるまいが、彼女のことを考えてしまう自分が嫌でならなかった。 「あら、早季子。早いのね」 リビングからの母の声に「ただいま」とだけ返し、わたしは洗面所に駆けこんだ。こればかりは洗面所から鏡台に移さなかったクレンジングクリームを顔に擦り込み、わたしは鏡の前に置かれた髭剃りやシェービングクリーム、男性用整髪料やクリームをぼんやり眺めた。 ――あちらでお付き合いしていた方と、駄目になったらしいのよ。  何年も別の家に暮らしていたはずの兄は、そんな理由であっさりとこの家に戻ることが出来る。わたしの化粧品を簡単に追いやり、それを誰もが当たり前だと思っている。父も母も、他ならぬ兄自身も。そしてそんな三人の態度に異を唱えられないわたしもまた、結局のところ、彼らと同じようなものだ。  兄はいつまで、この家に暮らすのだろう。わたしの化粧道具はいつまであの鏡台に置かれ続け、わたしは兄と洗顔の時間を奪い合うのか。  何もかもが腹立たしい。しかし何よりも腹が立ってならないのは、そんな兄に何も言えず、父母の態度にも異を唱えられないわたし自身だ。  クレンジングクリームの中で、ファンデーションが、口紅が解けてゆく。様々な色がどろどろに溶け、混じり合ったその顔。一分の隙もなく化粧したあの公園の女性も、化粧を落とすときはこんな醜い顔になるのだろうか。  何かの物語の主役に見えて、実は何でもない通りがかりのあの女性。平凡な大学を出、平凡な職場に通い続けるわたしも同じだ。いや、それを言えば、誰からもうらやまれる就職をしながらこうしてこの町に帰って来た兄もまた、結局は誰かのようで誰でもないただの平凡な一人の人間に過ぎないのか。 目元がパンダのように黒ずみ、ぼんやりと唇を開いたその顔は、驚くほど兄に似ている。嫌というほど塗りこんだクレンジングクリームを落とすことも忘れ、わたしは鏡の中のその顔を、いつまでも見つめ続けていた。
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