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小さい頃から、朝が苦手だった。小学校から高校までは、毎朝、母親の大声で叩き起こされ、半ば眠ったままで身支度をして、学校へと向かった。社会人になってようやく自分で早起きができるようになったのは、そうしないと化粧の時間が取れないという強迫観念によるものだ。
着替えに三分、朝食に五分。歯磨きと洗顔を合わせて、更に五分。化粧もせず、年中同じ制服姿だったとはいえ、今から思い返すとよくもまああれだけで外に出掛けられていたと呆れてしまう。
「おい、早季子。早くどけよ」
兄の邪慳な声に、わたしは洗顔を終えたばかりの顔を自分専用のタオルで拭きながら、
「もう。うるさいよ」と吐き捨てた。
「顔を洗ってるだけなんだから、すぐに終わるわよ。ちょっとぐらい待ってくれてもいいじゃない」
しかしわたしの文句にはお構いなしに、兄はすでに洗面台の前に陣取り、真剣な面持ちで髭を剃り始めている。
自宅からバスで十五分の総合病院で事務をしているわたしに対し、五歳年上の兄である雄介の現在の勤務先は、駅からJRと私鉄を乗り接いで一時間もかかる大手デパートだ。
ほんの三月前まで働いていた東京の商社に比べれば、デパートでの接客は随分毛色の違う仕事に違いない。しかしそれをまったく苦にする様子もなく、
――毎日、毎日、こっちは多くのお客さまを相手にするんだ。身支度だって、ただ清潔にしてりゃいいってわけにはいかないのさ。
と語るのは、実に幼い頃から万事そつのない兄らしかった。
彼に言わせれば、デパートの店員はその辺りのチェーン店で売っている安物のスーツなぞ着てはいけないのだという。とはいえだからと言って、がっちりとブランド物で身を固めると、それはそれでデパートの顧客に印象が悪いのだとか。
転職して間がないにもかからず、もう何年も前からその仕事に就いていたかのような兄の話を聞いていると、なかなか客商売は大変なのだな、と感心する。しかしだからといってそれと、一分一秒を争う朝の支度とは別物だ。
リビングでは、この春に定年退職したばかりの父が、のんびり新聞を読んでいる。ついこの間までは、この朝の洗面所戦争の一員だったというのに、まったくのんきなものだ。
「早季子、朝ごはんは?」
「時間がないから、今朝はいい」
朝食の用意をしている母に叫び返す。真剣な顔で髭を剃り続ける大きな背中を睨みつけ、わたしは自分の部屋へと向かった。
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