序文に代えて(大山真貴)

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 日下りかは真理の同級生である。京都ですごした中学から大学まで、クラスや学部はちがえど一貫してよく遊ぶ友達だった。りかが三年前、職場結婚したときも、友達数人でおそろいのドレスを仕立て、ブライズメイドをしたほどだ。  もともと、モデルのようにスタイルがよく、おしゃれで有名だったはずのりかは、なぜかすっぴんにパジャマ、その上によれよれのフリースジャンパーをはおっただけのみすぼらしい姿で窓際の席に座り、まったく手のつけられていない数皿のデザートを前にして放心状態に見えた。  その別人のような様子に、声をかけるのもためらわれたが、人違いだったらさっさと店を出ればいい。  店に入っておそるおそる声をかけると、りかは隈の浮いた眼で真理を見た後、まなじりから大粒の涙をこぼした。  溶けかけたイチゴパフェのアイスをスプーンですくいながら、真理はただうんうんと話を聞くしかなかった。  りかは新婚のときから数駅先に住んでいたはずだが、最近になって三軒茶屋に越してきたらしい。 「子供できたんだ」  そう言われて、真理は、裾の長い、毛玉のういたネルのパジャマに包まれたりかの体を観察した。りかの下腹は、ようやくわかるくらいに膨れている。  りかはうつろな目のまま、ため息を吐くようにつぶやいた。 「つわりがひどくて。ぜんぜん何もできない」 「そうなの」 「旦那がなにもしなくて」 「うん」  聞きながら、真理はちょっとうんざりする。とてもつらいのはわかるけど、それは自分のつかみ損ねた幸せの上にしかありえない不幸せだった。 「今日も休みだったのに、ごろごろ寝てるだけで掃除もなにもしなくて。ちょっと掃除してほしいって言っただけなのに、そんなんじゃお前はろくな母親にならないって怒鳴られて、カッとして飛び出ちゃった」 「何も持たずに?」 「スマホ持ってきた。財布は、スマホにICカードチャージしてあるから」 「旦那は連絡してきたの」 「音沙汰ない。離婚したい」  とつとつと話すりかの言葉に耳を疑って、真理はスプーンを口に入れたまま彼女の顔を見つめる。 「あんたそんな簡単に」 「いらないよ、あんな旦那の子供」  言いながら、りかの頬を大粒の涙が伝う。ぼんやりそれを見つめながら、真理はなぜか、高校三年生、最後の文化祭のあとの片づけで、いきなり泣き出したりかの横顔を思い出した。その時も、白い頬を大粒の涙が何粒も落ちて行った。 「ああ、ごめん。ごめんね、真理。こんな格好で。すっぴんだし、恥ずかしいよね」  りかは真理の視線に気づいてはっとし、慌てたように頬をこすった。 「ううん、そうじゃない。なんか急に高三の時の文化祭で、あんたが泣きだしたのを思い出したの」 「そんなこと、あったっけ」  りかの目に少し笑みが戻る。すこし心がほぐれた感じがして、真理は言葉をついだ。 「こんな時間帯だったかな、二人で文化祭のごみを出しに行ってさ。振り向いたらすごくきれいな夕暮れだったのと、ちょっと寒かったの覚えてるな」 「文化祭のころって、秋の終わりでなんか寂しくなる感じだったんだよね。私も若かったし、センチメンタルな気分になったんだろうね」  りかの頬に赤みが指す。 「たぶんすごく寂しかったんだ。ずっと一緒だった子たちと、大学は一緒でも進路は分かれるし。あの学校以外で過ごすって、楽しそうだけどちょっと怖くてさ」 「戻りたいと思うよ、たまに」  真理はため息をつく。実家の父はこのあいだ亡くなった。頼りがいがあったはずの母の背中もかなり小さくなった。兄弟は地元にいるけど、それぞれの生活がある。戻っても、あの頃の家は取り壊してもうない。たまにそれが痛いくらい悲しいことがある。りかみたいに、自分に家族があれば、もっと違うかもしれないが。 「わたしは戻りたくないな。二度と就活はしたくない。でも旦那は別のを選びたい」  りかはため息をついて、はじめて、乾いた唇を水で潤し、びっくりしたように目を開いて、コップの中を見つめた。 「久しぶりに味がする」 「じゃ、どうしてこんなにいっぱい頼んだわけ」  真理はスプーンで、りかの前に並べられた、パフェやパンケーキやアイスクリームの皿をいちいち指した。 「つわりが終わったら、ちゃんとお化粧して、おしゃれして、好きなものをいろいろ食べようって思ってたの。もう三か月も前からよ。それで、今日は飛び出てきた勢いで全部注文したけど、口を開いたら号泣しちゃいそうで食べれなくて、それも悔しくて」 「それでへんな顔してたの」  真理はアイスを口に運ぶ。溶けきって、ほぼ飲み物みたいになっている。 「へんな顔だった?」  りかはへこんだように眉をハの字にした。それがおかしくて、真理は笑う。つられてりかも笑った。 「よかった、たまたま通りがかって」 「奇跡だよね。わたしも助かった」  りかは言いながらまた、まなじりから大粒の涙を流す。涙をぬぐったその手元のスマートフォンが、メッセージの着信を示してぴかぴか光り始めた。 「旦那?」 「そうみたい」  りかがスマホの手帳型のカバーをひらく。 「電話してくりゃいいのに、小心者だからLINEしか送ってこれないの」 「謝ってきた?」 「いちおう。でも私が何に怒ったか、分かってるかはわかんない」  りかの口調にキレが戻っている。 「女じゃなきゃわかんないかな~。あー、でも女でも分かり合えない人はいるな」 「そりゃそうだ」  真理は後から注文したコーヒーを一口すすった。 「でもさ、それ考えたらへんな学校だったよね。いろんな子がいてさ」  真理はいいながら、窓の外に目をやって、店の明かりがともり始めた街を見た。  信号がかわり、目の前の国道に、ライトをともした車が行きかう。トラック、タクシー、乗用車。いろんな車種の車が、それぞれの目的地へ。  りかはグラスの水をまた飲んで、昔のようにおっとりと微笑した。 「そうだね、共学校だったら多少険悪になったりしたかもしれないけど、女子校だったからかなあ? みんな相容れないひとにはちょっかい出さずに距離置いてたもんね」 「職場で出会ってたら、りかとは友達じゃなかったかもね」 「ありえるな、わたし真理みたいにばりばり仕事したいタイプじゃないもんね。うっとうしいだろうな」 「どうかなあ~、パワハラするかしないかは、りかの勤務態度しだいだな」  ふたりはほがらかに笑う。あのころ、行きつけのファーストフードの店でしていたみたいに。 それから、りかはふう、とため息をついて、 「そろそろ帰ろうかな。脚が冷えてきた」 「じゃあ爆食い分はおごるね」 「いいのに」 「妊娠のお祝い。あと、こんどりかの家に顔出して旦那に蹴りいれていい?」 「うちの旦那、線が細いからねえ。アバラが折れるかもしれない」  真理は立ち上がる。りかも、何もこぼしたりしていないはずだけれど、よれよれのパジャマの上をはずがしげに払いながら立ち上がった。 「あー、なんて格好で出てきたんだろ」 「それだけ必死だったんでしょ。横にいなよ」 「普通、知り合いのふりしないでって言うとこじゃないの」 「もう言うタイミング遅いでしょ」  真理の真顔に、りかは噴き出す。  会計をしたあと、タクシーを探して、二人は並んで国道の脇に立った。さっき出てきた店のウインドウが、姿見みたいに二人をうつす。  よれよれのパジャマを着たりか、パリッとしたスーツの真理。どう考えても相容れない恰好の二人の距離は、親し気に近い。  私たちは動物園で出会った、えさになるはずの草食獣や小動物のすぐそばに、猛禽や猛獣が、のんびり昼寝している動物園で。楽園のルールがわたしたちに秩序と関係を築くのをたすけたおかげで、わたしたちはいまだに礼儀正しく距離をおき、あのころを懐かしむ。
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