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慈悲深い気狂い、おぞましい聖。
先生のそれは、たしかにある。存在する。しかし四六時中助手を務める私でさえぼんやりとしかわからないのだから、短時間で理解できるわけがない。
眉をひそめて黙っている患者を、同じく静かに呼吸の音さえ殺して、先生は見つめる。にらめっこが静かに静かに続いた。
やがて口火を切ったのは患者だった。この医者は治療から逃げるという選択肢は与えない。今度は自分が喋る番だと観念したのだろう。
「処方箋は教えていただいたように摂っています…。しかし怪異は…ものの浮遊は、以前より派手になっている気がしますね…。まだ私の室内にとどまっているようですが、家以外の場所で怪異が起きていない確信はありません。」
効果がない。どこかで間違っている。原因に対しての先生の判断が間違うはずがないから、発症のトリガーとなっていると見たものが実は見当違いか、患者が嘘をついているか。
しかし先ほど患者の嘘が露呈したことで、患者に寄り添う…というかもはや暴くための材料が増えた。先生は患者を傷つけないように探りを入れる。
「そうですか…では、怪奇現象以外に印象的な出来事はありましたか?」
「それも最近『これ』といっては…ううん…職業柄、その辺りにいる人よりかは刺激の強い日々を送っている自負はありますが…。はじめは慣れようとしていたのかもしれません。そして恐ろしいことに、本当に慣れてしまったのかもしれません…。」
天井からの光源に照らされた患者の顔は、血色が悪いうえに皮膚のシワが目立ち、どちらかというと魔女として殺される側の表情といった印象がある。
「感情の消滅は、自身が異常な環境にさらされた時に自己防衛の最終手段として脳が出す命令です。戦争に負けた国から攫われてきた民が、兵士が、彼らにとって異国の地で隷属させられているにもかかわらず、静かに静かに命令を聞いている…その態度は生理的に合理的なのです。」
「はぁ…まぁ、残忍ではあるのですが、処刑は全て…例外なく残忍なんですよ。私の担当する地域は、これが特別なんてケースはない…。」
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