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春の雪
「新しき年の始めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」
昭和十四年一月。
一郎は、英国で仕立てさせたオーバーコートの襟を立て、友禅染の華やかな振り袖の上に錆朱の被布を重ねた幸子に歩幅を合わせながら、呟いた。
「家持の歌ですわね」
「そうです。よくご存知ですね。僕はこの歌が一番好きなんですよ」
一郎がそう言った、まさにそのとき、薄い灰色の空から雪がふわふわと落ちてきた。
「まあ。雪が。今の話を空で誰かが聞いていたのかしら」
手で雪を受け止めながら幸子が楽しそうに言った。
「言挙げと言ってね、古の人々はめでたいことを言って、それが実現するように願ったのですよ」
「この歌には、では幸せを祈る心があるのですわね」
そう答えて、十八歳の幸子はもう一度小さな声で家持の歌を呟いた。
「この降りしきる雪のように幸せがたくさん重なりますように」
幸子はひどく明るい瞳で雪が落ちてくる空を見上げた。
「幸子さん」
「はい」
声のしたほうを見上げると、そこには緊張で強張った一郎の顔があった。
「僕と結婚してください。お目にかかってすぐにこんなことをいうわたしを軽薄などと思わないでほしいのですが」
ゆっくりと幸子は頷いた。即答するなんてはしたないと軽蔑されないかしら、と思いながら。
「必ずあなたを幸せにします」
「……はい。……はい。ありがとうございます。あなたのよい妻になるよう努力いたします」
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