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「ありがとう、ございます」
そう言って彼を見上げると、全く崩れない無表情がフッと緩んだ気がした。
優しいんだな。
私の胸の奥も、何かがフッと緩む。
ここには、香恋も春木先輩も来ることがない。
来たことのないこの場所は、日常を感じさせない。
それが、どれほど今の私を救っているかなんて、彼は知らないんだろうけど。
階段に視線を向けると、小窓からこぼれる優しいオレンジ色の光が、私を招き入れるように一番上の段を照らしていた。
人ひとり通らない殺風景な場所なのに、なんだか優しい。
じわじわと、胸の奥につっかえているものがほぐれていく。
ここにずっと居たい。
彼と、この場所に、ずっと居たい。
戻りたくない――。
そう思ったら、ぎゅうっと胸の奥が苦しくなって、何かがこみ上げるように目頭が熱くなった。
そのまま、すーっと温かい水が頬を伝っていく。
何なんだろう。
悲しい? 辛い?
もっと違う、言い知れない感情が、胸の奥を締め付けている。
ゆらゆらと揺れる視界に、差し込む光が温かい。
隣にいる彼は何も言わない。
だけど、その気配がとても優しい。
「ふぅっ……」
堪らずに嗚咽を漏らすと。
ポン、と、頭に優しい振動が乗った。
「使って」
低くて落ち着いた声と同時に、白いタオルハンカチを差し出される。
揺れる視界に映ったそれを、そっと受け取ると、また胸が苦しくなって涙が出た。
「うぅっ……ふぅっ……」
押し出されるものが止まらなくなって、彼から逃げるように階段へ駆け寄る。
彼に背を向けて座り込んで、手に持った彼のタオルハンカチを濡れた顔に押し当てた。
ふんわり柔らかい繊維が、優しく涙を吸い取っていく。
鼻腔をかすめる、爽やかでほのかに甘い匂い。
きっと、彼の匂い。
「っ……ふうっ……うう……」
喉が震えて苦しい。
胸を締め付ける感情が何なのか、わからない。
そんな中で、一瞬、感情とは離れた脳の片隅で。
“俺、冬が好きだからさ。雪瀬紫映って名前、冬っぽくてすげー好き”
“雪瀬ちゃんって呼んでいい?”
春木先輩の懐かしい声を、思い出していた。
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