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ポケットをそっと握ると、カサ、と乾いた音がした。
(よしっ)
決意を固めて、ドアをノックし、引き戸を開けた。
「失礼します、支倉先生はいらっしゃいますか?」
声を張り上げると、今日もいつもの席で、本や書類が立てられたら本棚の向こうから、支倉がひょこっと顔を出した。
「おう」
優しい笑顔で手を振る。
結依は会釈してから室内に入る、かなり通い慣れたこの道程を、ギクシャクした感覚で歩くのは初めてだった。
立ち上がった大間とすれ違った。
「頑張るわね」
「はい、楽しくなってきました」
結依は笑顔で答えた。
「支倉先生も精が出ますね」
大間はにこりと笑っていなくなった。
その大間の席を引きながら、ふと思う。
「あの……ご迷惑ですか? 毎日、毎日、判らないなんて来られて……」
「とんでもない」
支倉は心の底から言った。
「判らない事を判らないままにされるよりずっといい。教師になる人間は大抵は教えるのが好きな人間だ、聞かれれば嬉しいさ。やる気のある子に教えるのは、こっちも刺激を受けるしね。何度も同じ事を聞かれたら、そりゃ頭にも来るけど」
結依はそんなことはない。
「今みたいに楽しくなってきた、なんて思ってくれたら本当に教えててよかったなって思うよ」
「でも、ごめんなさい……毎回、毎回……」
ただ、支倉に会いたいだけなどとは、言えなかった。
「いいって。田浦みたいに数学は苦手だなって子には、どうしたら理解してもらえるか考える機会にもなってるよ」
それは半分は本当の事だ、残りの半分は、ひた隠したい。
「──ありがとうございます」
結依はぺこりと頭を下げて、椅子に座った。
「ここなんですけど……」
教科書を開き、文章問題を示した。
「うん、ここか、田浦は苦手そうだな」
言って微笑む横顔を見た。
思わず左のポケットをさすった、いつ、渡すか?
後にして傷つく姿を見せないか、先に渡して、それでも支倉に笑顔で接する事が出来るよう訓練するか──。
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