3.雪国パルプ

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「雪パルは相場になるよ。客どもは二、三十円上がると利食いしたがるだろうけど、けっして売っちゃあいかん。業界紙が大々的に書きたてるまでじっと辛抱するように、今からよく話をしておくんだな」 凜子はおどろいた。 老人は今まで相場に関しては、「でぃんりょく、でぃんりょく」以外の言葉を発したことがなかったからである。意外なことに、この老人はまことに正常な頭脳の持ち主だったのである。「なんで・・・」凜子があきれ顔で、老人のしわだらけの顔を見つめていると、老人は照れたように軽く首をふって答えた。 「営業マン達は、みんな客がほしくて血まなこになっているから、“でぃんりょく、でぃんりょく“で煙幕を張っているのさ。わしは昔からこのシマに遊びにきているのだが、どこの店でも、お前さんのように欲得なしでお茶やみそ汁を出してくれた人は、一人もいなかった。 この味噌汁だって、食堂のおばさんにいくらか金を掴ませなくちゃ、いい顔をして出してはくれないものだ。だから、お前さんにだけは心を許したんだ。わしは、明日一億円をもってくるが、一億円で雪パルの現物を、買えるだけ買ってもらいたい。今日買う方がいいか、明日の方がいいかは、お前さんの判断に任せるよ」 「ありがとうございます。それでは所定の用紙をもって参りますから、ご住所、お名前、電話番号などをお書きこみ下さい」 と云って、老人の反応をみた。老人が軽くうなずいたのを見て、自分の席へ戻った。会社としては所定の用紙を用意していなかったので、凜子は自分用の用紙を印刷してもっていた。四日目受け渡しが兜町の流儀ではあるが、金の顔を見ないうちに株の注文を受けて、買ったその日に急落した場合など、そんな注文をだした覚えはない、と逃げる悪質な客もたまにいて、証券事故の元になるので、少しでも事故を軽減しようとの思いから、凜子が考えたものであった。 三丁目老人は、驚くほどの達筆ですらすらと書きあげた。 「これほどの達筆は、見たことがありません」 彼女は用紙をうけとって、惚れ惚れとながめた。凜子はその用紙を外務部長にみせて、三分の一の三十万株を今日買いたい旨を伝えたが、山際部長はむずかしい顔をして考えこんだ。 「あの爺さんは私も昔から知っているし、この街では知らない人はいないほどの有名人だが、一億なんていう大金を持っているとは、とても信じられないね。株式部長にも相談してみよう」
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