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山際部長は、株式部長の今田常務の席へ、凜子をつれて歩みよった。今田常務は話をきくと、即座に首を横にふった。
「明日、お金をお預かりしてからにしなさい」
と言下に退けた。凜子が三丁目老人のもとに戻って、言いにくそうにしていると、
「買うのは明日でいいよ。一億ばかりの端がねでも、一応、金は金だからな。重役さんたちは、お前さんの身を案じて言うのだから、気に病むことはないよ。明日、八時半に一億円の小切手をもってくるから、寄りつきから派手に買って出なさい」
食事をおえた老人は、挨拶もせずにふらっと帰っていった。
「あの菜っ葉服の爺さんが、一億なんて大金をもっているのかね、眉唾だとおもうよ」
青葉女史がそばへ寄ってきて話しかけた。凜子は返事のしようがなくて、あいまいな微笑を返した。翌朝、老人が八時半に一億円の小切手をもって現れると、営業場は騒然となった。さらに、凜子が寄りつきで三十万株の買い注文をだすと、逆にしずかになった。寄りつきの値段は百十八円、と三円高だった。寄り後、百二十円をつけてから揉みあいに入って、九時半になると百十五円の安値をつけた。老人は凜子をよんで何事か耳打ちをした。凜子は赤伝票を書くと、速足で株式部に向かった。株式課長の声がひびいた。
「雪パル三十万株、成り行きで買う」
その声に、営業場は再びどよめいた。外務員と営業マン達数十名の視線が一斉に老人に注がれた。ホームレスのような汚らしい老人が、豪快に買うことが信じられない、といった目であった。
「百十六円で三十万株買えました」
凜子が隣にすわって報告すると、老人は目を細めてうなずいた。
「百二十円を超したら、あと二十万株買いなさい」
といった。この日は三時まで居つづけて、大引けで二十万株を買い足した。合計八十万株である。終値は百二十円であった。
「百五十円台にのせたら、信用取引で買うから、何とかいう書類を持ってきなさい」
老人は信用取引の約定書に印鑑を押しながら
「これは実印だから、安心していいんだよ」
と言って、歯のぬけた口をあけて凜子に笑いかけた。低位株とはいえ、一日で八十万株を買った老人は第五証券ではヒーローであった。営業場にいる数十人の人々の老人を見る目が百八十度違ってしまった。
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