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「私の自宅には決して来ないように」
とだけ言いおいて、老人はいつもと変わらない飄々とした足取りで帰っていったが、翌日から老人は姿を見せなくなった。凜子は何度も電話をかけたが、昼も夜もだれも電話に出なかった。雪パルは活況を呈して、大商いのうちに百三十円と台替わりをした。老人の言うとおり、凜子の客は利食いをするべく店頭にあつまってきた。電話はひっきりなしに掛かってきて、店頭客の応接の合間に電話の応対に追われた。
「せっかくの利益ですから、はやく利食いしたいのは私もおなじ気持ちですが、取れるところはすこし欲張ってでも、しっかり取っておきたいのです。相場のことですから明日のことはわかりませんが、ここは売るより買いのせたいのですが、いかがでしょうか?」
凜子は懸命に説得につとめた。その結果、全員が百五十円台にのせたら、信用取引で買いのせることに同意してくれた。山興は二百円までは買いまくり、二百円のタイミングで業界紙に書かせるのでは・・・、と凜子は読んでいた。二百円で終わるのか、そこから本格的な相場に発展して行くのかは、仕手の介入次第だろう。仕手とは、玄人の相場を意味する兜町独特の用語である。仕手は、実体を無視して値上がりした株に、カラ売りを大量に仕かけてくることがある。信用取引は六ヶ月を期限としているので、売り方はその間に売りくずそうとし、買い方は売り方の踏み上げ(損して買い戻すこと)を期待して、ときに大相場に発展することがある。
雪国パルプは、業績の回復を期待するものの、本来収益率の高い業種ではないため、仕手戦になるようなことはないだろう、と凜子は割合さめた目でみていた。三丁目老人はどこへ消えたのか、いつ電話をかけても通じなかった。病気か怪我でなければいいがと心配しながらも、家には絶対に訪ねてきてはいけない、と釘をさされているので、連絡の取りようがなかった。二週間後、雪パルは百五十円台にのせてきた。凜子は午前中に客注を取りまとめると、信用取引で四十万株を買った。前引けは百五十一円であった。ふと入口に目をやると、三丁目老人が玄関を入ってくるのが見えた。あいかわらず菜っ葉服に、よれよれの同色のズボンを履いて、杖こそついてはいなかったが、よちよち歩きは変わらなかった。凜子は喜色を満面に表して出迎えた。
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