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「ようこそ。でも心配したんですよ、どうなさったのですか?」
「心配してくれたのかね、済まなかったね。なに、ちょっと山籠もりをしていただけなんだ。俗世間から離れて、山奥で暮らしていると、身も心もすっきりするんだよ」
「御無事でなによりでした。雪パルが待望の百五十円台にのせてきました」
「そうか、だいたいそんな頃だろうと思って出てきたんだ。百五十一円引けか。じゃ、信用で後場の寄りつきで、三十万株買いなさい」
「ありがとうございます」
凜子は頭をさげて、お茶をいれに給湯室へ早足で向かった。後場の寄りつきは、前引けと同じ百五十一円であった。老人はホームレスのような汚らしい格好で、ソファに腰をおろして無言で黒板をみつめていた。凜子の客が店頭に三人きていたし、電話が何本も入って大忙しだった。平均株価が百円ちかく下げるなかで、雪パルは百五十円を中心に揉みあっていた。凜子は電話の合間に老人に歩みよった。老人はそれを待っていたように
「今は二時頃かね?」
と話しかけた。
「はい、二時十分過ぎです」
「丁度いい、あと三十万株を成り行きで買いなさい」
「はい、かしこまりました」
凜子はすばやく反応して、赤伝票に書きこむと、株式部へ小走りに走った。
「雪パル三十万株、百五十二円で買えました」
株式部員の大声を確認すると、老人のもとに戻った。
「百五十二円で三十万株買えました」
と小声で老人の耳元でささやいた。老人は無言でうなずいた。
「あとは大引けだな」
と独り言をいった。それを聞いて、凜子の表情が引きひきしまった。大引け十分前になると、老人は
「大引けで四十万株買おう」
とつぶやくように言った。平均株価は二百円前後下げて、黒板は青札一色であったが、雪パルひとり気をはいて、前日比数円高だった。凜子が四十万株の買い伝票をだすと、それを見とがめた株式部長が待ったをかけた。
「三丁目さんは、承知しているんだろうね?」
「もちろんです。二時すぎから大引けを狙っておられました」
「そうか、それならいいんだ、しかし、合計百万株だからな」
「ではお願いします」
場電で株式部員の、低いがはっきりした声で注文が入った。
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