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自宅というのが持ち家なのか、借家なのか、もわからない。三丁目金左衛門という人物が何者なのか、さえわかってはいないのである。だれに聞いてもわからないという。古くから兜町に勤めている人たちは、めずらしい名前のせいもあって、みな顔を知ってはいるが、商いは、したのを見たことがないという。凜子は信用取引で百万株もの注文を受けたことを、後悔しはじめていたが、老人が現れるのを待つ以外に方法はなかった。
しかし、ありがたいことに雪パルのうごきは順調そのものであった。平均株価がさげた日は、雪パルは前日とほとんど変わらず位で終わり、平均株価が上げた日は数円づつ上げたので、小動きながら、老人が買った日から約二週間で三十円ちかく上げて、百八十円台にのせていた。凜子の周囲は大さわぎであった。当たり屋、という兜町独特の用語で人々は言いかわし、古巣の山興証券世田谷支店の営業マン達の、電話をかけてくる回数もふえた。もちろん顧客たちが店頭にくる人数も、電話の回数もふえ、受話器を両手で二本もち、もう一本を首にはさんで、三人一辺に相場の解説をするような有様であった。
「もう利食った方が良いのではないか」
という顧客からの催促の電話が多くなっていたが、
「株価が急騰するか、出来高が突出して多くなったような場合は売るべきですが、いまのところ株価のうごきは穏健ですし、出来高も二千万株から三千万株の間ですから、いそいで売る必要はないと存じます」
凜子の返事は毎日おなじことの繰返しであった。山興の社員たちも彼女に提灯をつける連中がふえてきて、顧客に混じってやたらに電話をかけてきた。凜子は彼らに邪険な態度をとらずにていねいに応対したので,場が引けるとぐったりしてしまう程であった。
風丘遼にはときどき連絡をとっていた。
「風丘さん、おひまな時で結構ですから、夕食につれて行っていただけませんか?」
風丘にだけは甘えたかった。彼の妻が難病で、一年ちかくも療養所に入っていることも承知していた。
「君の方針で、間違いないと思う」
風丘は、酒をゆっくりのみながら、凜子の相場観に同意してくれた。
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