4.当たり屋

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その夜は九時に別れたが、凜子は肩が軽くなるのをおぼえた。風丘のすべてを包み込んでくれる暖かさに、甘えていられる自分がしあわせだと思った。翌日は、雪パルが一気に二百円の高値をつけた。大引けは百九十八円だったが、出来高は一億株を上まわる盛況であった。引け後、出来高を場電でたしかめてもらうと、凜子は客先に電話をかけつづけた。 「市場全体の出来高が十五億株の中で、中低位株とはいえ一億株をこす出来高は、さすがに過熱感が感じられますので、明日、現物・信用とも全部売却したいと思いますが、いかがでしょうか?」 凜子の呼びかけに、客は全員賛成してくれた。売値はまかせる、という声も一致していた。電話を掛け終えて、ホッとして顔をあげると、黒板のとなりにある時計が五時をさしていた。周囲の外務員は一人もいなくなっていた。何気なくカウンターに目をやると、応接用のソファにふかく腰をおろした、三丁目老人の姿が目に入った。正面玄関はとっくに閉まっていたから、裏口から入って来たのであろうが、凜子は電話に夢中でまったく気がつかなかった。傍へよって並んでソファに腰をおろすと、老人が先に口をひらいた。 「凜子ちゃんの電話をきいていて、その通りだと思ったよ。明日は、業界紙はどの新聞も、一面トップに雪パルを書きたてるだろう。おそらく数百万株の成り行き買いが、殺到するだろう。一日の出来高も一億株を越すだろう。まだ上がるかもしれんが,一旦は売るところだ。明日は、寄りつきで全部売りなさい。君の客に全部売らせれば、寄りつきの買い気配は消えて、今日の引け値と、よくて同値位、わるくて百九十五円くらいだろう。寄りあとは、真空地帯みたいなものだから、二百円台にのせるだろうけど、それはそれでいいんだ。大量の売り物は、寄りつきの成り行きでなくちゃ売れないから、指値なんかしちゃいかん」 凜子がだまって肯くと、老人はさよならとも言わずに裏口から帰っていった。明日は、三百三十万株を全部寄りつきで売ろう、と決心すると、肩の荷が軽くなった。
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