7.売りの山仙

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爆騰をつづける相場に対して、山仙は諦めたのか、もう売り乗せる資金がないのか、まとまった成り行きの売り物はでてこなかった。兜町中の視線があつまる中で、東洋火薬は独歩高をつづけた。冬の初めには、あれよあれよ、という間に七百円台にのせ、十二月も中旬にさしかかると、ついに八百円台に突入した。三丁目老人が久しぶりに姿を現した。 「山仙もここまで上がるとは、想像もできなかっただろう。奴の習性で、そろそろ手仕舞いを考えるところだろう。山仙が手じまいをしなければ、どこまでも上がるだろうから」 と、つぶやいた。それを聞いて、凜子は背筋をのばした。今日まで利食いをしたい気持ちを必死になって我慢してきた。目の前のごちそうに手をださずに、じっと堪えていることは一種の苦痛であった。二日後、八百円台の揉み合いを脱出した東洋火薬は、八百八十円まで急騰したが、大引けは八百五十五円であった。 「奴め,踏んだかな?」 老人の目がきらりと光った。珍しい事だった。凛子の胸が緊張で震えた。 「出来高は六千四百万株でした」 「今までで最高の出来高だね。これで、八百円を割ってきたら、それでおしまいだよ」 「明日、利食いをするべきでしょうか?」 「うむ、難しいところだが」 「手口を分析してみます」 「山仙はたくさんの店を使うから、無理だよ。読みの勘で勝負すべきだ。凜子ちゃんの勘はどうだね?」 「私の勘は自信がありません。勘というものは、永い経験に裏打ちされたものでなくては、あてにできないものだと思います」 「ふむ、謙虚でよろしい。わしの勘では、明日八百三十円を切って下へ行くようなら、思い切って売るべきだろう。百二十万株もの大量の売り物は機を逸したら売るに売れないが、明日から四、五日以内なら、出来高が多いから売れるだろう」 「八百三十円を切らなければ、八百八十円の高値を抜いて、さらに上に行くこともあり得るでしょうか?」 「うむ、その確率は、十のうちの一くらいだろう」 「これだけ上げてきたんだから、カラ売り残高が何百万株か減っただけで、大幅な下げがあるでしょうね?」 老人は無言でうなずいた。
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