7.売りの山仙

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翌日は、八百四十円から五十円の間でもみ合って、さしたる変化は見られなかった。日証金残高は一日おくれて新聞にでるため、凜子は翌日がまち遠しかった。朝五時に起きて、経済新聞の日証金の欄に目をやると、東洋火薬のカラ売り残高が二百五十万株、カラ買い残高が百二十万株、共に減少していた。もちろん逆日歩は解消していた。 「山仙は、全部を買い戻してはいない。半分か、三分の一か。もし今日下げれば、残りを買い戻すかもしれない。そうなると、この相場は終わりになる」 老人の言葉を胸の内で反芻しながら、凜子は今日中に売る決心を固めて家をでた。業界紙がどんなに強気論を展開しても、売る決心が鈍らないように自分自身に言いきかせて、開会のベルをまった。逆日歩の解消をみて、相場は弱含みに展開して始まった。 八百三十一円まで、ジワリと下げてきたところで、凜子は、バイカイをとるよう場電にたのんだ。買指値は、八百三十円に五十万株、八百二十九円に五十万株、以下八百二十五円までに合計七十万株あった。 「東洋火薬、成り行きで百二十万株売ってください」 声が緊張で震えた。現物と信用の売り伝票二枚を、株式部次長に渡す手もかすかに震えた。黒板の数字は、またたく間に八百二十五円をつけた。課長は小さなメモを手渡してくれた。それには、八百三十円で五十万株、八百二十九円で五十万株、八百二十八円で二十万株、売却できた旨がメモされていた。そのメモを握りしめて、凜子は自分の席まで夢遊病者のようにふらふらと歩いた。肩の荷を下ろしただけでなく、繋がれていた鎖までもが外れたような気分であった。椅子にすわっていても、体がふわふわと宙に浮いているような気分であった。ふと、われに返った凜子の目に、黒板の数字は八百十円を割って、八百円とび台でもみ合っているのが見えた。 「八百円を割ったら相場は終わりだ」 と、云った老人の言葉が脳裏にうかんだ。
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