7.売りの山仙

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「ぼんやりしている時ではない。八百円割れをカラ売りしなくては」 と、思いついた。この仕手株をカラ売りすることまでは、具体的に考えていた訳ではなかったが、今ふっと、その思いが脳裏を横切った。山仙程の大物相場師が大失敗した、東洋火薬という化け物みたいな仕手株を、今度はバトンタッチして、自分が売り屋に変身できるだろうか。今度は、自分が大失敗する番になるのだろうか。しかし、八百円を割ってきたら、買い方は一斉に投げるだろう。八百八十円まで調子にのって買い上がった買い方は、はじめて高所の恐怖を味合わされるのだ。考えてみるまでもなく、四百円台という台座から虫を追いかけて、高い木の天辺までかけあがった子猫が降りられなくなって、助けをもとめて泣きさけぶ姿を連想させられる。 昨日の六千四百万株の出来高のうちには、日計らいの商いも含まれるであろうが、千二百円目標だという太鼓のリズムに乗せられて、信用で買いついた大衆の小口買いも、相当程度混じっているはずだ。仕手株をなめてかかった素人衆は、高い月謝を支払わされる結果になるだろう。凜子が考えているうちに前場が終わった。前引けは八百十円であった。場立ちが三,四人取引所から戻ってきた。その中の切れ者とよび声の高い、木島という二十代の青年をよびとめて、凜子は簡単な質問をした。 「山仙はどの程度買い戻したでしょうか?」 木島はうすく笑って答えた。 「半分の三百五十万株くらい、というのが地場筋の見方だね」 「すると、あと半分は下値に指値をして、待っているのですか?」 「かもしれないな。二十万株以上の単位で、八百円とび台にずらりと買い物が並んでいるからね。あれを見ると買い方は、下げない、と安心してしまうだろうけど、下値に買い玉(ぎょく)が多い時ほど、下げるときは迫力が出るということもあるね」 「どうもありがとうございました」 凜子は頭を下げながら、他の人に見えないように、小さくたたんだ封筒を木島の手にそっと握らせた。中には三万円が入っていた。木島は白い歯をちらっと見せて、その封筒を素早くズボンのポケットに入れて、だまって立ち去った。地下の食堂で食事をすませて上がってくると、三丁目老人の姿が目に入った。給湯室でお茶をいれると、凜子はにこやかな笑顔をみせて、挨拶をした。
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