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8.シマリンファンド
全部利食ったことを告げると、老人は満足そうにうなずいたが、突然きびしい表情になって、
「八百円割れを,カラ売りしてみる気はないかね?」
と,云いだした。
「はい、実はそれを考えていたのです」
「そうかね、君は相場師としての素質があるね。山仙などは売ることしかできないし、大証券の株式部長は買うことしか考えない。頭が柔軟な人間ならどちらでも出来る筈なんだ、そう思わんかね?」
「はい、そう思います。山仙が叩いたからこそ上がった相場ですから、山仙が手を引いたら、元の木阿弥になると思うのです」
「そう、『行って来い』なんだ、ただし、時間がかかるがね」
「買って儲けておいて、今度は売りに回るようなことをして、兜町の中に、敵をつくることにはならないでしょうか?」
「出る杭はうたれるし、妬む奴は山ほどいるだろう。しかし、結局のところ味方が半分、敵が半分というのが、勝負の世界の姿なんだな。叩いて叩きつぶすようなことさえしなければ、人の恨みを買うことにはならないから、心配をしなくてもいい」
「みんな仲良く、にこにこ笑って暮らすためには、何もしないことが一番いいのでしょうが、やりすぎて妬みを買うのは、怖いですね」
「なに、もう充分に妬みは買っているさ。かけ出しの若い女が、ベテラン揃いのシマの連中の鼻を明かしたんだから」
「今更、気に病んでも仕方がありませんか」
「シマは男社会だからとは思うんだが、男の嫉妬心は、政治の世界でよく見て知っていると思うが、それはひどいもんだよ。業界紙の記者なんかには、飲み代をくれてやることが大切だよ。特に、取材にきた奴なんかにはね」
「はい、そうします」
老人は説教をたれて、満足したようにうなずくと、いつものように、さよならとも言わずに帰っていった。今日はめずらしく弁当をひろげなかった。凜子はひとりで東洋火薬のカラ売りを考えつめることは、辛い仕事のようにも思えた。後場が始まると、株価は安値八百一円までつけたが、八百十円まで戻したり、と気を持たせるような動きがつづいた。ここで五十万株も売り浴びせれば、一気に八百円を割り込むだろう。それが誘い水となって、高値で買いついた連中の投げを呼ぶことは、目に見えているような気がした。しかし、
「叩いて、叩きつぶすようことは」
どうあってもやるまい、と凜子は自分に言いきかせた。
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