9.買い占め

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9.買い占め

その晩は、それで別れた。翌日から、凜子は関心をもって関東船舶の値動きを注視しはじめたが、手張りをする気はなかった。証券会社に勤務するものは、相場に手をだすことを禁止する規則があるが、兜町中の営業にたずさわる者の大半が、手張りをやっているのが実情であった。目の前で大金がうごき、情報によってはた易く大金が稼げる。このシマの魅力は、商品相場の蠣殻町とならんで、公営賭博場の体をなしていることであった。それだけに、買い占めの噂に対しては最も敏感に反応し、噂はあっという間に街中をかけめぐることが普通だった。だれが流したのか関東船舶の買い占めの噂は、猪熊と会った三日後には凜子の耳にまで届いた。しかし、噂がやたらに多い街だけに多くの人は半信半疑だった。人々の好奇にみちた視線にかこまれて、株価は二百二十円台へと着実な値上がりをつづけていた。 「三十パーセント近くまで集まったら、ゴーサインを出すから、それまで待て」 という猪熊の言葉を守って、凜子はじっと待っていた。株価は着実に上げて、二百五十円台にのせてきた。猪熊経済に電話を入れてみると、猪熊の鼻息は荒かったが、買収が三十%に届いたかどうかは、はっきりしなかった。 「親会社も、大事なところに差し掛かってきたので、慎重になってきて正確な数字を言わないんだそうだ。しかし、過半数がとれない場合は、T〇Bをかけるだろうから、いずれにしても上だと思う。シマリンファンドにも、そろそろ御出馬願おうかな」 凜子は二百五十円台で足踏みしている株価に、ふと疑問を感じた。周囲を見わたすまでもなく、買い占めの噂はだれ一人知らない者はいないような有様で、本来なら、もっと元気よく上がっていても良さそうなものだ、と思う。ところが今日で五日間、二百五十円台でもち合っている。二百五十円は手ごろな値段で、最低取引単位の一千株は、二十五万円であるから、買い占めのニュースを聞きつけた若いサラリーマンでも買える値段で、ここでのもちあいは、理解に苦しむところである。猪熊に問いただすと、 「値が飛ばないように、抑えているのではないか、と思う」 との返事だった。
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