11.兜町よ、さらば

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「ありがとう。それと、来春会社をやめて、北海道で百姓をやることにしたんだ」 「えっ、何故やめるんですか?」 「証券会社が肌にあわないこともあるんだが、サラリーマンそのものが嫌になったんだ。親父の遺した農地がわずかばかりだけど、石狩平野にあるもんだから、石狩川と果てしない空をながめて、のんびり暮らそうと思い立ったんだ」 「いい所なんですね、石狩平野って。私も行ってみたいな」 「札幌から少しはなれた田舎でね、何もない所さ。私は田舎育ちだから、コンビニやレストランが近くになくても、何とも思わないけど、都会育ちの人には面白くもなんともない所だよ」 「私は贅沢をしたくはありませんし、楽をしたいとも思いません。農業は創造性があって、やりようによっては、面白い仕事だと思うのです」 「まあ、ゆっくり考えてみることだ。最も刺激のつよい職業の優等生の君に、正反対の仕事が肌にあうかどうか、どこかで体験してみてからでも、遅くはないだろう」 風丘は微笑をうかべて、遠い空を眺めるような目をしていた。大日本住宅の社長とちがって、その目はあたたかい光を湛えていた。 「私が長年求めていたのは、この暖かさなのだ。今こそはっきりわかった」 凜子は確信した。風丘が送ってくれるというので、タクシーを拾った。渋谷をすぎたころ、交差点で、タクシーの横腹に乗用車が突然追突してきた。凜子の座席の側に突っ込んできたのは、飲酒運転の若者だった。凜子は出血こそしなかったが、頭を強く打って、意識不明の重体であった。風丘は体中の打撲が激しく、動けない状態だったが、意識だけははっきりしていた。 救急車がきて、渋谷の総合病院に運ばれた。凜子は、なかなか意識が戻らなかった。母の元子は毎日つき添っていたが、手の下しようがなく、途方に暮れていた。やっと松葉杖で歩けるようになった風丘が、毎日顔をだすのだが、凜子の容態は変わらずに眠りつづけた。三週間たったころ、やっと目をあけた凜子は、妙なことを口走った。 「ああ神様、私を生かして下さったのですね、ありがとうございます。これからも、一所懸命生きて参ります」 と言って、再び目を閉じてしまった。これには五十五歳になる母親も妙な顔をして、わが子を眺めた。風丘は 「きっと、天国を見てきたのでしょう」 と言って母親を慰めた。
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