1.女相場師

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一年間は無収入でもやって行けるだけの貯金をためてはいたが、ホッとする気持ちだった。商いはすべて現物であったが、手数料稼ぎに走らない誠実な姿勢が客に好感をもたれ、客を紹介してくれる人も現れて、翌年の春には、数十万円の手取りの月があった。山興証券の同年齢の営業マンたちの年間給与と同額であった。この数字はだれにも言わなかったが、山興の役員たちの頭の堅さを笑ってやりたい気持ちだった ある日、客先に相場を通しおえて、ふと店頭に目をやると、後ろのソファにすわって、手製の弁当をひろげている年寄りが目に映った。見たことのない客だった。営業マン達も外務員たちも地下の食堂か、外へ昼食にでかけていて、営業場はガランとしていた。時計を見ると十二時をまわっていた。十一時に前場が引けて後場は一時からであったから、この時間がもっとも人がいない時間帯であった。 老人は弁当を食べおわると、歯のぬけた口をもぐもぐさせながら黒板をじっと見つめていた。凜子はふと立ち上がると、裏口のわきにある給湯室に入って、熱い茶を入れて盆にのせて老人のもとへ運んだ。老人は歯をきちんと入れていないために、一見して九十歳くらいに見えたが、そばへ寄ってみると、さほどの年寄とも思えなかった。老人は無言で頭を下げたが、礼は云わなかった。 「扱い者はどなたですか?」 と、凜子がたずねると、 「でぃんりょく、でぃんりょく」 とだけ云った。凜子は一瞬とまどったが、 「ああ、電力株をお持ちですか」 と応じると、老人はうれしそうに頷いた。電力株は、彼女が相場に興味をもちはじめた学生時代から、何年もの間相場らしい動きを見せたことがなかった。作業用の菜っ葉服に、菜っ葉ズボンをはいた風体からみると、電力株も多くもっているとは思えなかった。三時に後場が引けると、いつも和服で通している外務員の青葉女史が、凜子のそばに近寄ってきた。 「あの爺さん、お茶を出してもらって、うれしそうだったわね」 凜子がだまってうなずくと、女史はつづけた。 「あの爺さんは昔からこの街に住みついているのよ。うちの店に現れたのは一年ぶりだけど、ほとんどの中小証券に顔をだしているそうよ」 「そうですか。株が本当にお好きなのですね」
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