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2.三丁目金左衛門
「おもしろいニュースがあるんだ。今夜、会えないかな?」
「はい、ありがとうございます。で、何時に?」
「五時半にいつもの所で、どう?」
凜子の目が急にかがやいた。そっと受話器をおいて自分の席に腰をおろすと、もう三丁目老人のことは頭から消えていた。風丘は妻がいたが、難病のため何年もまえから療養生活を強いられていた。凜子は入社した時から、七年先輩の風丘を見つめていた。彼は仕事ができるのに、同僚の三宅や猪熊のように肩で風をきって歩くでもなく、大言壮語することもなく、部下や女子社員にやさしく、いつももの静かな態度をくずすことがなかった。風丘は本社の調査部への転勤がきまった時、大手客の何人かを凜子にゆずろうとしたが、彼女はそれをきっぱりと断った。
「風丘さんのお世話になるのがいやなのではなく、自分の能力をためしてみたいのです。それに、山興証券のお客さんをこっそり頂くことは、私の良心がゆるしません」
「これは、私の言うことが間違っていた、あやまるよ。君のことだから、ゼロから始めてもきっと成功すると確信しているよ。会社の業績見通しなら知らせてあげられることもあるだろう。隣のビルだから、時々会うこともできるよ」
と言ってくれた、風丘のあたたかい言葉を思い出していた。電話が数本入って、ふと気がつくと、三丁目老人はいつのまにか消えていた。お茶とみそ汁の盆はそのまま残されていた。凜子はそれを片づけてから、五時半までの時間をどうつぶすかを考えた。ふと山興証券の営業主任だった猪熊次郎太が、日本橋に猪熊経済研究所をオープンしたことを思い出した。十日ほど前に、以前の同僚からの電話で知ったのであった。オープン式は三日前だったから、お祝いに行こうと思いたった。日本橋のデパートで手土産を買って、大きなビルの七階にある研究所をたずねた。猪熊は以前からこの計画を仲間内に話していたから、凜子も山興にいた時から知ってはいたが、これほど早く実現するとは思いもしなかった。
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