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涙を堪えているのだろう、どこか不自然に途切れがちな声だった。兄は、全ての人の名前を忘れた。正しく言えば、全ての人間ではない。若い頃に出会った人間の名前や顔は覚えている。だが、それはあくまで若かった頃の相手の名前と顔だ。あなたは誰ですか、というテンプレートのようなやりとりもしたし、親友の孫を親友の名前で呼んだりもした。
「あんなにしっかりしてたのになあ」
それも形無しになるから認知症なのだ、と心の中で思う。実の息子であるからこそ、彼が受け入れられないのは当然だ。
「まぁ、僕のことも忘れてたしね、大ちゃんは」
そう言って、肩をすくめる。自分へ呼びかけることはなくなったが、それを悲しいとは思わなかった。彼は、直接自分の名前を呼ぶことはしなかったが、弟である自分の話は放っておいてもペラペラと喋ったからだ。
「天ちゃんは、俺の弟なんだけど本当にすごいんだよ。頭も天才的によくて、本当は俺より運動もできるし要領はいいし、顔だって可愛い」
勝てるのは身長くらいなんだよ、と誇らしげに彼は言った。喋っている相手が当の本人だと分かったとしても、おそらく彼は恥ずかしげもなく褒めるのだろう。
「本当に、弟が好きなんだね。そんなに出来る弟で、妬けないの」
なんとなくそんなことを尋ねた。本当は、恨んでいないのか、憎んでいないのかと聞きたかったのかもしれない。彼の話す自分は雲の上の存在のようだった。しかし実物はそんなものではない。
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