《靖治》

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 陸上自衛隊・対霊作戦群第一期部隊長、土御門香由良(つちみかど かゆら)三等陸佐曰く、 『我々が最も警戒すべきは、人の心的傾向である。  我々は日々肉体と精神の強化に励むが、心的傾向は鍛えようが無い故である。  心的傾向は、時と、場所と、他者とが織り成す世間の波の中で無計画に生成される。我々は如何なる兵器、式神を用いても、これを予知できない』    ◇ 《靖治》  八月一五日。有明に聳える東京ビックサイトは、世界一のオタクの祭典【コミックマーケット】の会場として機能している。  炎天下、数万人のアニメオタクたちで混むみ合う会場を出た俺は、逆三角形の形をした巨大な建造物を見上げ、ペットボトルの水を煽った。  大混雑の内部で買い物という名の戦いをくぐり抜けた身体に、不足していた水分が行き渡って、幾らか目が冴えたような気がする。  ――あばよ、ビックサイト。  俺は心の中で別れを告げて踵を返した。  会場のシンボルとも言えるこの逆三角形を次に見上げるのは、年末だ。  用事を済ませたのだから、こんな人間まみれの場所に長居する理由などない。  コミケの帰り道は、コスプレエリアから国際展示場駅への橋を渡る順路である。  通過点のコスプレエリアはカメコやら見物人やらレイヤーやらで、館内の同人エリアに負けず劣らずの賑わいだ。  俺は視線を下向けて、小惑星帯を進む船の如く、障害物を避けながら駅を目指すが、一際人口密度の高いエリアに出くわしてしまった。  どうやら、一人のコスプレ少女を取り囲むカメコ帯の外周にぶつかったようだ。  メイドの姿で輪の中央に立ち、人々の視線を受けて微笑を放つ彼女を、俺は垣間見る。  きめ細かいに違いない白い肌。  どの角度から見てもバランスの取れた美貌。  写真に自分を写す際は顔をやや横向けるといった技が自然体で滲み出る、天性。  コスプレ界において、その名を知らぬ者はいないとまで噂される彼女の名は確か、なんと言ったか。  有名な人物だということは知っているのだが、名前を忘れた。  親の財に恵まれ、大学に難なく通い、そのプロポーションでスカウトを引き寄せ、女優デビューを果たし、ラジオにも出演し、更に倍率五〇倍の、自衛官の試験に合格したらしい。
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