34人が本棚に入れています
本棚に追加
「ただいま」
練習の邪魔をしないようタイミングを図ったかのように僕の部屋に父親の声が入った。
父さんはいつも忙しい。
小さな田舎企業が五年で一部上場に乗り、今では世界各地に工場や支店を持つ大手企業に成長していた。
父はその当時の幹部責任者に在職しており現場の末端で役員と一緒に会社を大きくさせていた、今ではその功績が認められ、自分が役員の一人となっている。
転勤が多く、僕の幼少期と中学時代はドイツで暮らした。
その間はアフガニスタン、シンガポール、ベトナムと転々とした。
世界のあちこちにいて、家にいない。その癖、単身赴任はせず、家族を必ず連れ回す。
そういう父親だった。母さんにはその生活が苦しそうだった。
「あ、お邪魔しています」
サラが遠慮がちに父さんに会釈する。家にいない父親は親戚でも家族の間でも他人のようによそよそしい。
「明日からまた少し遅くなるから、食事は済ませてくる」
「あ、私が多衣良の分も作っておきますので大丈夫ですよ」
サラがわざとらしく元気に応える。自分の姉が本当に何もかも捨ててドイツに行ったことを妹なりに気にしているのだろうか。
「いつもすみませんが、お願いします」
気遣う父さんと目が合う、違う意味で謝罪された気がして僕は思わず目を逸らしてしまった。
ピアノと母親。小さい頃からこれがすべてだった僕には慣れない父と子の時間に親子以上の気まずさが流れている。
母がいないだけでこんなにも父親との距離が遠いとは知らなかった。
そう言うと父はキッチンへと向かう。広々としたリビングを使わず、備え付け程度の小さなテレビをつけて、サラが作り置きしているラップのかかった食事を冷蔵庫から取り出し、それを温め直して一人で小さな食事を始める。
怒られた記憶など一度もない、ギャンブルも煙草もやらない、少しのワインと母さんが作るドライフルーツたっぷりの焼き菓子が好きな父さん。
その丸まった背中を見るのが、どうにもいたたまれない。
最初のコメントを投稿しよう!