第1章

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 不思議でした。もしかしたら自分は本当に記憶を失った俳優なのかもしれないと、それを受け入れそうになった時、胸の中が「ドン」と内側からノックされたのです。胸騒ぎではなく、期待でした。締め付けられる感覚ではなく、弛緩なのです。  私はこれと同じ感覚を過去に味わったことがあります。厳格だった父親が死んだ時です。それは父性からの解放を意味していました。父の遺灰の中から、未来の扉を開く鍵が転がり出てきたのです。当時の私はすぐに否定しました。自分はなんて愚かな子供なのだろうと自己嫌悪に陥ったくらいです。身内の死という非日常が生み出した幻覚作用と言い訳して、その時は処理したのですが、結局のところ、あの頃から私は何も変わっていなかったのです。不幸の中に埋もれている小さな幸福を探し出す嗅覚を、ずっと隠し持っていたのでした。  その後、医者や看護士が来ても、私は成田さんの言葉通りに対応しました。人気俳優らしく毅然として振る舞ったのです。人助けだと思って努めることにしました。  病室を訪れる誰もが、私を特別扱いします。最初こそ罪悪感がありましたが、すぐに優越感が顔を出し、今までに味わったことのない、くすぐったさを満喫している事に気づき、自分自身にゾットするのでした。  目覚めた時に冴えないオッサンになっていたら、私は全力で境遇を否定したことでしょう。幸運なことに人気俳優になっていたことから、比較的スムーズに記憶喪失になっていることを受け入れたのかもしれません。
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