あの夏

19/21
前へ
/21ページ
次へ
実家を離れて日常を過ごしていると、母が亡くなったことがまるで夢だったように思える日がある。だけど実家に帰ると母の姿はなく、やはり現実だったのかと知らされる。 わたしが着物の着付けを習い始めた時、母は自分の着物をわたしにあげようかと何度も言った。けれど、わたしは断った。母が着物を着ている姿など、あんちゃんの結婚式以来見たことがなかったからだ。着物なんてあるわけない、いつものようにそう決めつけていた。 だけど、母の物を整理している時に、一度も袖を通していないだろうと見える着物が見つかった。母の嫁入り道具だと父が言った。そうか、母の時代はそういう時代だ。母もしっかり準備してもらってお嫁にきたんだ。もしかしたら、「娘さんが産まれたら娘さんに着てもらえますよ」なんて言われて、胸を弾ませてこの家に入ったかもしれない。 わたしが着物の着付けを習い始めた時、母はどんな気持ちだったのだろう。 母は一生懸命わたしたちを育ててくれたのに、わたしは少しもこたえてあげられなかった。あげられないまま、母は逝ってしまった。 父が母の着物を売ると言った。ちぃ兄ちゃんは自分の子どもが大きくなったら着るかもしれないと言った。わたしは言えなかった。この着物は、母がわたしにくれると言っていた着物だと。だけど、この着物はわたしが着る。だから勝手に捨てたり触ったりするなと言った。どうせ興味のない父のことだから、この着物のこともきっとすぐに忘れるだろう。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加