あの夏

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仕事を理由に家を出て、何年になるだろう。ダブルワークをしていたわたしは実家にいた時からほとんど家にはいなかった。食事もほとんど外ですませ、家族と一緒に食事をしたのがいつのことなのか、思い出せない。 癌が見つかってからは短時間だろうと母の様子を見に実家に帰るようになった。すでに一日の大半を寝て過ごしていた母だったけれど、わたしが一人暮らしの部屋に帰ろうとすると必ず見送ってくれた。這ってでも見送ってくれた。そして必ず、 「行ってらっしゃい」 そう言って送り出してくれた。「行ってらっしゃい」とは「行って帰ってらっしゃい」だと聞いたことがある。だから、「行ってきます」は「行って帰ってきます」。 子どもの頃は「行ってきます」と言っていたのに、いつのまにか、「うん」と返すようになっていた。大人になってからわたしは母に、「行ってきます」と言ったことはあっただろうか。そんな小さなことがイチイチ胸に押し寄せてくる。全部今更だけど。 ◆ 同じ週の土曜日、あんちゃん(一番上の兄)が実家に帰ると言った。 わたしには2人の兄がいて、それぞれ結婚をして実家を出ている。あんちゃんはもう、家を出てから過ごした年月の方が長い。実家へは車で帰れる距離に自分の家族と暮らしていて、ここ数年は新型コロナウィルスのこともあり、実家には帰れないままだった。母の病気を知らせてから、それでも両親が最初のワクチン接種を終えるのを待っていた。 それを聞いたちぃ兄ちゃん(2番目の兄)も仕事が終わったら実家に寄ると言った。ちぃ兄ちゃんは実家から車で30分もかからない場所で働いている。もともと、わたしも帰るつもりでいた。久しぶりに……、10年とまではいかないかもしれないけれど、実際それくらい長い間、わたしたち兄妹が実家にそろうことはなかった。
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