あの夏

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◆ 土曜の昼、あんちゃんと父と一緒に病院へ行った。けれど母には会えなかった。新型コロナウィルスの影響で病棟に入れなかった。入院患者とは各階の談話室で面会ができるらしいけれど、それはあくまでも自力で歩ける人、車イスに乗れる人に限られた。 その日、母は熱を出してしまったらしく、車イスに乗ることもしんどいということだった。 結局、あんちゃんは生きている母には会えなかった。あんちゃんが母の顔を見ることができたのは火葬場で、ありきたりな言葉でこういう時によく使われる、いわゆる「無言の対面」というやつだった。ほんの数分の再会の後、母を見おくったあんちゃんは静かに、 「お母さん、顔が黄色かったね。あれ、黄疸が出とったんじゃない?」 母はお通夜もお葬式もしなかった。だけどせめて、綺麗にお化粧くらいはしてあげればよかったな、と。その時、思った。 ◆ 夜になってちぃ兄ちゃんがやってきて、父と兄妹3人が顔をそろえた。もしもこの場に母がいたら、と思った。昔は広く感じられたテレビの部屋(わたしたちは居間をそう呼んでいた)も、大人4人が集まれば暑苦しいもんだ。 病院からは母の転院を急かされていた。何の治療も施さない母をいつまでも置いておけない、病院ではないからと。 母は自分の母親、わたしにとっての祖母が最期を迎えた病院に入りたいと言っていた。祖父はわたしが幼稚園の頃に亡くなっており、子どもたちも家を出て1人で暮らしていた。寝たきりになってしまった祖母は病院に入るしかなかった。 母が希望するその病院は実家から少し距離があり、80歳近い父が1人で行けるかどうか不安だった。そしてお金のこともある。 病院から紹介された転院先と母が入りたいと言う病院は1日の入院費が3千円も違った。両親はともに年金暮らしで、あんちゃんもちぃ兄ちゃんも自分の家族がある。保険がいくらかおりるかもしれないけど、必要なのは入院費だけじゃない。それがいくらになるのかわからない。父にもわたしにも日々の暮らしがある。簡単に自分が全部出せるとは言えない。 この時もわたしはまだ、母が長生きすると信じていた。要らぬ心配ばかり真面目に考えていた。 あんちゃんが言った。 「膵臓癌って見つかりにくいんだって。見つかった時にはもうほぼ手遅れで、一年ももたんらしい」 あんちゃんは母に癌が見つかったことを報告した時、ただ一言、「わかった」。それ以外は特に何も言わなかった。だけど、あんちゃんなりに病気について調べて、心配していたみたいだ。当たり前か。自分の母親だもんな。 「最期くらい、本人の望むようにしてあげよう」 他にもいろいろ話し合った。母が入院すれば父は1人で暮らすことになる。もし何かあったら……、という不安もある。まだまだ先だと思っていたその日は思っていたよりも早くきた。そして、わたしたちは何の準備もできていなかった。
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