あの夏

9/21
前へ
/21ページ
次へ
ガバッと音が鳴るくらいの勢いで起き上がった。母の病気がわかってからずっとそうだった。真夜中の着信ほど怖いものはなかった。なのに頭は妙に冷えてシンとしているのは、どこかで覚悟をしていたからなのか。 父からだった。今、病院にいるという。うまく説明できない父の向こうで看護師さんの冷静な声が聞こえた。正直ありがたかった。 『そんなにたくさん来られても入れんもんで、まずは一番近くに住んでいらっしゃるお子さんだけ、お願いします。そのあとは体を拭いてあげたりキレイにしてあげたり、いろいろあるもんで』 看護師さんの声と、鳴り響く警戒音。ドラマでよく聞くその音はそれぞれ別次元に存在しているかのように、どちらもハッキリと聞こえた。そしてわかった。 たぶんもう、間に合わない。 ハッキリと。それだけわかった。 『あんちゃんにも連絡をしたで。あんたも新幹線でもいいで、来れるかん?』 父はもちろん大真面目だ。お父さん、いくら新幹線が速いって言ってもこんな夜中の1時じゃ動いてないよ。 あんちゃんの車に乗せてもらって実家から帰ったのは一昨日のことだった。兄妹が集まるのに約10年かかったというのに、今回は3日と空けず、しかもこんな真夜中になるとは誰も思ってもいなかった。あんちゃんに連絡すると、わたしも行くなら迎えにいくと言ってくれた。 帰らなければよかった。そんな後悔、あとからいくらでも味わうことになるから今は要らないと思いながら、捨てることができない。ダブルワークを始めた時も家を出た時も、医師から今年の夏は越えられないと聞かされた時もそう、覚悟なら何回だってしてきたはずだ。それでもいざ、その瞬間に立ちあえないことがこんなにツライなんて。 どんだけ自分勝手なんだ。 違う。 どんだけ甘い覚悟だって話だ。 わたしはちゃんとわかっていなかったんだ。 母が亡くなるということを。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加