共同作曲

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 フルート、オーボエ、ホルン、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、それらが、フルート協奏曲はぼくの心の中で奏でられている。  ぼくの中で奏でられながら、オーストリアのザルツブルクは花開いていた。   そういえば、ぼくはこれからウィーン、パリ、ロンドンへとの旅支度をしなければならないんだ。  ぼくが3才でチェンバロを弾いた時だった。父のレオポルトから「この子には、天性の素質がある」といわれ子供心に嬉しかったようで、その当時はいつも微笑みを絶やさなかったといわれていた。  旅行自体はぼくの中の楽しい演奏は、ザルツブルク全てに歓喜され、煌びやかな花々は、神殿のような神聖な風を受けながら、心地よく協奏曲を静かに聞いてくれている。東アルプスやウンタースベルク山からは、ぼくの演奏に合わせるように小鳥たちが、清流のような風の音を囀っていた。  でも、ウィーンでもパリでも職には就けなかった。  なかでも父もぼくも楽譜の出版によって、生計を立てているという毎日で、肝心な演奏の方は観客の人々の耳を大いに楽しませたものの。宮廷のどこからも職を与えられることはなかった。  そんなある日。ぼくはまた9月にウィ―ンに旅だった。シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏する日があった。とても光栄だったけど。その演奏の際、誤って床に転倒してしまったんだ。  けど、忘れることはない。  その時の光景を。  ぼくに手を差し伸べたのは、後の最愛の人。マリー・アントワネットだった。 「大きくなったら、ぼくのお嫁さんにしてあげる」  ぼくの言った言葉。  後にある形で現実になったんだけど、その時からこの世で唯一の信じられる運命だったんだ。  演奏を熱心に聴いていたゲーテは、さもありなんとした顔をしていたのをぼくは覚えていた。  1969年から1771年は、またぼくは父と共に旅行へとでた。ミラノ、ボラーニャ、ローマを巡回し、あの人を胸にいつも仕舞いこみ。システィ―ナ礼拝堂では門外不出の秘曲のグレゴリオ・アングリのミゼーレを聴いた時、必死に暗譜で書き記した時も、ぼくはあの人のことを片時も忘れなかった。  初のオペラ「ポントの王ミトリダーテ」は大絶賛を受けたが、報酬はわずかでこの時も楽譜の出版で生計を立てる日々だった。  でもね。ぼくの心の片隅には、いつもいてくれているんだよ。あの人が……。
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