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「この夏最高の人出を記録した須磨海岸では
ビーチパラソルの花が咲き・・・」
昼のニュースが伝えている。
千香子はキッチンに立って昼食の用意をしながら
テレビに背を向けたままそれを聞いていた。
夫と子どもはまだ帰ってこない。
夏休み最初の日曜日、混まないうちに課題図書を借りてこようと
市立図書館にふたりして朝から出かけていったのだった。
須磨の海岸から程近い私鉄の沿線に千香子と家族の住むマンションがある。
ポートアイランドにある会社に通勤する夫、小学1年生の息子。
さほど裕福ではないが贅沢しなければじゅうぶんやっていける、
その程度の暮らしぶりに千香子自身は満足していた。
パートに出ようかとも一時期考えたこともあったのだが
近くの山を切り拓いてつくられたニュータウンが、日本中を震撼させる
事件で有名になってしまったこともあり、
そんな街で子どもを一人残しておくのは気がひけて、なんとなくきっかけを逃してしまった。
レタスをちぎりサラダボウルに入れ、ラップをかけて冷蔵庫に入れると
千香子は食卓の椅子に腰をかけた。
テレビには日曜日の海岸が映っていた。
自分の目で見ようと思えばすぐ見に行ける、
それほど近くに海岸があるのに、冷房の効いたこの狭い部屋にいて
テレビの四角い画面の中にその風景が存在していることがとても奇妙だった。
人間で埋め尽くされた熱い砂浜。
お互いの身体にオイルを塗りあう若い男女が
テレビカメラを意識しながら微笑んでいる映像がアップになった。
その瞬間千香子の頭のなかで何かが響いた。
ガラスのコップが割れたような音だ。
あの人に似ている。
この街にいるはずもないのに。
追い払っても追い払っても消えない、
かといって鮮やかに残っているわけでもない。
そんな一人の青年のぼやけた面影が
何年かぶりに千香子の目の前で焦点を結び始めていた。
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