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第1章 シブタニ
中二の時のあのグループが、いつどのように発生し、なぜ交換日記をするようになったのか、シブタニはぼんやりとしか覚えていない。
ただ彼女達のことを考えるといつも、モネが描く春のような淡い風景が鮮明に蘇ってくる。
シブタニは中学二年になる直前、この街に引っ越してきた転校生だった。
黒板に担任が大きく名前を書く。クラス中の生徒の視線が新メンバーと文字とを素早く往復する。
転校生なら誰しもが感じる緊張の瞬間だ。
だが、シブタニには通常とは別の緊張と、ある種の諦めにも似た予感があった。
「しぶや?」
席の前方にいた男子生徒が目ざとく呟いた。
「ほんとだ。渋谷だ」
「ねえねえ、渋谷のハチ公の飼主って、実は犬を飼うのヘタだったんだって、知ってた?」
「どうでもいいよ、んなこと」
誰かの軽口に別の誰かの笑い声が重なる。
シブタニの緊張は最高潮となった。
「あの、しぶたにです。渋谷と書いてしぶたに……」
堂々と冷静に、そう思っているのについ消え入りそうな声となってしまう。
もう何度目だろう、自分の名前を書く度に「しぶや?」と聞かれ「いいえ、しぶたにです」と答えるやりとり。その都度、相手の顔に無意識に浮かぶがっかりとした表情。
いっそ本当にしぶやだったらよかったのに。その方が、同じ変な名字と思われるにしても二度手間だけは避けられたのに。
好きでこんな名字に生まれたわけじゃない……。
「先生、それより下の名前を紹介して下さい! 私そっちのが気になります! ゆうきですか? ゆきですか?」
凜とした声が響いて、自分でも気がつかないうちに目をギュッと瞑っていたシブタニは、そっと顔を上げた。
小柄で気が強そうな女の子が立っていた。後にそのことを当の貴子に言うと「そう? 私座ったままじゃなかったっけ? よく覚えてないや。ヤマジュンさっさとすればいいのにと思ってたし」とサラッと流されたのだけど、シブタニには立ち上がった貴子の真っ直ぐ伸びた背筋に後光が差してるように思えたのだ。
しばらく経つうちにシブタニは、貴子がほんとうはあの時自分の下の名前にこれっぽっちも興味がなかったのだとわかった。事実、数ヶ月経ってから彼女は「シブタニの名前ってなんだったっけ?」と無邪気に尋ねていたのだから。
そしてあの時、クラス中が好奇の目で見つめるなか、貴子とまーのと美香だけがくすりとも笑わなかったなとも。
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