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6.木田さんの左掌と、右手
「美味しそうなリンゴジュース。それでいいです。交渉成立!」
「ありがとうございます。買い物袋に入れておきますね。二本」
「あ、二本もすいません」
「だって、お父さんの分も」
「あ、すいません」
チインと、スーパーの袋の中でリンゴジュースが音をたてる。音は音のままで私の耳に直接届くみたい。部屋にちょっとも吸われていないまま。なんだか、おかしな具合。おかしな部屋だと思った。
「あの」
「はい」
私は迷ったけど、疑問は持ち帰りたくないから。
「左の掌で、こたつを擦ると、どうなるんですか?」
木田さんはその時初めて、ニイっと笑った。リンゴジュースでも音をたてるのに。笑い声もなく、唇を引っ張り上げてた。
「やってみせますよ」
木田さんは言うと、蛍光灯の紐を引っ張ることもせず。夕暮れの薄暗がりの中で、こたつ机に腰を下ろしてあぐらを組んだ。
「向かいに座ってください」
言われるままに、私は正座で木田さんの向かいに座る。
「色々見えるし、声も聞こえるはずですよ。目を閉じて、耳を塞げば」
「耳?」
「これ、耳を塞いでください」
どこから持ちだして、いつの間に手にしてたのか、小さなワインのコルクのようなものをふたつ渡された。渡してくれた木田さんの手は、右手だった。なんでやろう、木田さんの右手に触りたくなった。けど、触れなかった。
耳に押し込むと、不思議なことに何も聞こえなくなる。音が全部コルクに吸われてしまっているように何もかも音が全部鼓膜に届かない。
木田さんも耳にコルクを詰めると、今度こそ人でなくなってしまったようにニイっと口を裂けるまで引っ張った。
目を閉じると、左掌で天板を擦る。ニイっとしっぱなしでずっと。何か、とんでもないことが木田さんの体になだれ込んでいる気配を感じて、私は遅れないように目を閉じてみた。けど、何もなだれ込んでこない。
もしかして、ただの変態? 父さんに助けを求めないとヤバイ? そう思いかけた時。木田さんの右手が、私の右手を握った。
ばあちゃんが若い。
父さんが若い。
亜矢子叔母ちゃんが若い。
じいちゃんは今の父さんにそっくり。
「まぁた、靴下片っぽ、おこたの中ではっけーん」
「もー、お父さん困りますよ」
「堪忍、堪忍」
「もー、なーんか臭いと思ってたんよ」
「父さん、ちゃんとしてくれよ」
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