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それにしてもこの殴られ屋は客に興味がないようだ。情報社会において顧客からデータをかき集め、分析することで利益を求めるようなタイプの業者ではない、と思う。それは相手の嗜好を気に止めない、あるいは無視している、泰然としている、などとも言い換えられる。どっちでもいいけれど、というオーラを出したどこか野良猫のような、背中を丸めた人物の後ろ姿がイメージとして思い浮かんで、私は何をその気になっているんだと頭を振った。それにも関わらず、スマホのアドレスを添え、腹を一回と希望を入れて送信してしまった。私が私として生きてきた中で一番素早く行動できた瞬間だった。『ご依頼ありがとうございます。スタッフのスケジュールを確認次第、ご連絡いたします』という送信完了画面が表示されたのを見て、呆然とスマホの画面を閉じた。こんな冒険、するタイプじゃないのに。第一、人を殴るなんてそんなことできっこないじゃない、いやでも、取材、これは取材の一環で、義務なのだ。しょうがないことなのだ。ぐちぐち考えて、腰掛けていたベッドに腕を広げて倒れ込む。そのはずみにスマホも手から滑り落ち、スプリングの軋みと共に二三、跳ねた。それから部屋はしんとして、もう何も動く気配がなかった。けれど気配はしなくとも、世界が動いていることには変わりなかったみたいだ。
「……うそ」
ヴ、ヴ、ヴとスマホが震える。嘘も何もないのだ。さっきアオイにメールという手段で語りかけたのは紛れもなく私なのだ。スマホを手に取ろうと伸ばしていた腕を移動させ、いざ触れようと思ったところで止まる。殴られ屋の吐息が聞こえた気がしたのだ。笑いのようなため息のような、一人なのか集合体なのかもわからないものが発した、吐息。それがたまらない寂しさを含んでいたようで、ぎくり、と私は竦んでしまったのだ。まだ会ったことすらないというのに、なんでこんなことを考えているのだろう、と私は自分の感情にぽかんと口を開けてしまった。早まっていた鼓動が静まった頃、私は人差し指でちょん、ちょん、とスマホに触って、大丈夫だ、と思って掌で掴んだ。大丈夫だ。危険はない。たぶん、ない。
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