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 日が落ちた。  マッチを探す手間を厭い、ランスは燭台ごとロウソクをつかみ、暖炉の覆いを足でのけた。しゃがみこんで、炎のなかにロウソクの先をつっこむ。周囲のロウが溶けはじめるころになってようやく火がともり、ほっと息をついた。  手燭に火を移し、部屋じゅうにともす。居間を出ると、次は廊下の燭台だ。三階建ての屋敷をぐるりとひとめぐりし、最後に階下の厨房に入る。  今日は『朝食』の調理をさぼってしまった。昨日の豆のスープはまだ生きているだろうか。鍋のふたをあけて匂いをかぎ、かまどに火をいれる。昨日の昼に焼いたパンにカビやネズミのかじった跡がないことを確認し、スープ皿を一枚出す。だが、自分の食事は後回しだ。まずは、主人の食事を用意せねばならない。  陶器のボウルと、刃のうすいナイフ。やわらかいふきんと、あとは、グラス。  棚にしまわれているブルゴーニュのグラスは、ずんぐりとしている。月に一度しか使わぬ品だ。取り出して、ていねいに羽根でなぜるように磨く。力をこめてはならない。質のよい薄手のガラスはすぐに割れる。  磨き終えたグラスをそっと調理台にすえて、水場で丹念に腕を洗ってくる。指や爪のあいだもブラシでこすって、仕上げに綿の布でふんわりくるんで水気だけをふきとった。  ヘタにこすると、肌に繊維が残ることがある。ほこりが浮いているとグラスをつきかえされたこともある。二度抜いたあの翌日は一日眠りこんでしまって、読書もろくにできなかった。  指ではじかなくても、肘の内側の血管はすぐに見つけられた。毎月のことだ。いいかげん、血管も太く頑丈になっている。  ボウルのうえに腕をわたし、息をとめる。奥歯をきつく噛みしめる。肌にナイフを押しこんで、静脈に傷をつける。肘先とボウルの縁を伝って、血が垂れる。深く息を吸いこむ。吐きだす。そのたびに流れる量が多少する。痛みよりも、指先のしびれが勝った。  ナイフを置いて、血がたまるのを待つ。赤黒い液体はぬるりと細い筋をつくって流れつづける。白い底が隠れ、だんだんと満ちていく。
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