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グラスの底の血が乾きかけている。グラスをつかんで中腰になったところを引き留められた。
「……もう一杯ぐらいなら、平気です」
エレインは髪がはねるほどの勢いで首を横にふった。
着替えを手伝えと、ぱっと立ちあがった主人の前にひざまずく。こうすると、やっと視線の高さがおなじになる。薄青の瞳は、だが、ランスの顔を通りこす。
幼いまるみをおびた肩から、夜着をすべらせる。下着姿になっても、女性らしいふくらみはほとんどない。固いつぼみのまま、エレインは少女のときを過ごしつづける。はじめて出会ったころには、すでにこのすがただった。
恥ずかしがりもしない彼女の腰に、腕をまわしたくなる。どうにか衝動を抑えてこぶしをにぎり、用意してあった着替えのドレスをとりに立ち、自分から距離をおいた。
エレインを化け物だと思ったのは、あとにも先にも一回きりだ。
サイドテーブルのうえのグラスを流し見て、胸元のぶあついリボンをむすぶ。ワイングラスのシルエットは、ほころびかけた薔薇のつぼみに似ている。
月に一度の重要な日だとは知っていた。
エレインのためだけのワイングラスを買おうと、前々から思っていた。味にあわせていくつも種類があるのだと教わって、自分でも血をなめて、ブルゴーニュにしようと決めていた。でも、あれを求めた日、世界はゆらいだ。
大きな町から帰る乗合馬車が故障した。夜遅くなるつもりはなかった。日が落ちれば、エレインが起きる。それまでには帰り着くはずだった。
飢えたエレインはいつにもましてかよわい。溶けてしまうのではないかと心配で、矢も楯もたまらずにランスは屋敷にかけこんだ。新しいグラスに血を用意するより先に、三階の寝室に飛び込んで無事をたしかめようとした。
寝台も寝室も空だった。ウィンドソア・ハウスのどこにも、主のすがたはなかった。
荷を置いて町にとびだし、エレインをさがした。ひとの消えた大通りを、路地を這いまわるように走った。
どこかで倒れているかもしれない。どこかで、──どこかで、ネヴィル卿の息子に見つかって、銀の剣で突かれでもしたら。
息をきらして、かがみこんで、低い声をきいた。身を起こして見た先に、エレインがいた。若い男の背にすがりついていた。
何をしているのか、すぐにはわからなかった。怪我でもして、負ぶってもらっているのかと思い、数歩近づいて、瞠目した。
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