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男がうめいた。四肢をふるわせる。立っているのも、やっとというようすだった。
あの細い顎で、どうやって食い破ったのか。首筋の肌がほかよりやわらかいとしても、こどもの歯がおとなのからだにあんなふうに穴をあけられるものだろうか。
ランスは立ちつくしていた。
裏通りにふわりと湯気がたちのぼる。硬貨ほどの穴をあけた男の首筋に、さもいとおしそうに舌をはわせ、恍惚と血をすする。流れおちる血を指でぬぐって、残らずねぶる。喉がうごめく。
動けなくなった。膝がふるえた。動悸とめまいで、息が荒くなった。
自分でも理解できずに、胸をおさえる。
ほんとうは、こわいのではないか。あれは化け物だ。自分は、いまの満ち足りた生活を手放したくなくて焦っていたのではないのか。
男を、知らず、にらみつけていた。
エレインを引きはがして、男を殺したい。あの喉を通っていいのは、自分の血だけだ。
あれほどしあわせそうな顔をしてくれるのなら、この身など、いくらでもさしだせる。それなのに、どうして自分ではなく見ず知らずの男なのだ。──グラスでしか飲まないのだと思っていたのに!
もう一歩踏みだすと、エレインの目がランスをとらえた。幸福そうなひかりが失せた。男からくちびるを離して、飛び退く。うつぶせに倒れ伏す男とこちらとを交互に見遣り、怯えたような表情になった。
ランスは男を蹴りとばした。男のからだははね、上半身だけがねじれた。意識はない。すでに死んでいたのかもしれない。
男を路地裏に隠して、エレインのくちもとをハンカチーフで強くふき、手をひいた。
「……ランス?」
ドレスのリボンをむすんだきり、手をとめてしまっていたらしい。不安そうな顔をしたエレインに笑みかける。ベッドメイクをするからと送りだし、ひとりで寝室に残った。
悪心に口を片手でおさえ、ベッド脇に膝をつく。乱れたシーツに顔をふせる。
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