近くて、遠い。

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平面でしか見たことのない男が、うちの猫を撫でながらミカンを差し出してくるのは、ずいぶんシュールな光景だ。 まず、見慣れない大きさに戸惑う。 画面の中とは縮尺が違う。 人間なのだから当たり前だが。 そして、こたつとミカンという取り合わせ。 我が家の、レトロな花柄の毛布をかぶせた年代物のこたつに、菓子入れに入ったミカン。 日常的、あまりに日常的な小道具に、整った顔が不釣り合いだ。 イタリアの広場でジェラートなんかを差し出す方がよほど似合っている容貌なのに、彼は古びた毛布から上半身を乗り出し、一山いくらの果物を掴んでいる。 「あれ、いらない?」 怪訝そうに訊かれて、私ははっと我に返り、「ううん、もらう」とそれを受け取った。 まじまじとミカンを見つめても、特に変わったところはない。 それはそうだ。 昨日自分がスーパーで買ってきたものなのだから。 けれど、遠藤篤志(えんどうあつし)に渡された、という付加価値は、きっと日本中の女子が認めるだろう。 貴重な宝物のように「もったいなくて食べられない!」と思う子は、絶対に1人や2人ではない。 そう思いながら、私は普通にミカンを剥いて口に放り込む。 「そういえば昔さあ、俺ミカン食べすぎて手が黄色くなったこと、あったよね」 「そうだっけ?」 「覚えてない? 曜子(ようこ)、びっくりして泣きながらおばさん呼びに言ったじゃん」 「そんなこと――」 言われてみれば、と思い出したが、体裁の悪さに口ごもる。 子供のころのことを持ち出されるのは、いい大人になった今ではあまり愉快なものではない。 分別のない時代のことだ。 「覚えてないなあ」 ふてくされ気味に、毛布に両手を突っ込んで顔をそらす。 けれど、篤志の思い出に自分がいる、というのは、決して悪い気分ではなかった。 「もういっこ」 菓子入れに手を伸ばし、あまり器用ではない手つきで白い筋を取る横顔を眺め、私は「遠藤篤志ってミカンとか食べるんだ」という妙な感想を抱いた。
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