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傘を差していたにしては環は顔も髪も濡れていて、抱きしめた身体は酷く冷たかった。足元を見れば案の定、ムートンのショートブーツはすっかり濡れて色が変わっている。
やっぱり環は歩いて帰って来たんだ。途中で事故に遭わなくて良かったとつくづく思った。
「かわいそうに、こんなに冷え切って。早く風呂に入って温まろう。」
環を抱きかかえて外階段を上り、差したままだった合鍵を回して玄関のドアを開けた。
廊下の照明を付けると、いつものホッとする匂いが俺を包んだ。
「ああ、環の部屋の匂いだ。やっぱり落ち着くな。」
狭いアパートの一室だが、玄関にも廊下の壁にも和み系の雑貨が飾られていて、環らしいホッとする空間を作り出している。
「ちょっとゴメン。こっちを見ないで。」
恥ずかしそうな声に何だろうと思って、つい見てしまったら、玄関マットの上で濡れたストッキングを脱いでいる環がいた。
環のストッキングなんて数え切れないほど脱がしているのに。環のあられもない姿だって何度も見ているのに。そんな俺の前でも恥じらう環の仕草が美しいと思った。
真っ白い足の爪先だけが、仄かに赤い。濡れて冷えたから霜焼けになるんじゃないか? ふと心配になった。
タオルで足を拭くと環はまっしぐらにバスルームに入って行き、浴槽に湯を溜め始めた。たぶん、足も洗いたかったんだろう。
その間に俺は手を洗いながら、自分が環よりも早く来られた訳を説明していた。
こんなことなら、どこかで待っていてもらって環と一緒に車で帰ってくれば良かった。
さっきから何度も考えたことがまた頭に浮かんだが、環が無事だったんだから良しとしよう。
この1年というもの、この部屋で環と多くの時間を過ごしてきた。
時には意見が食い違うこともあったが、いつもすぐに仲直りをして笑い合えたのは、お互いの存在が何よりも大切だったからだ。
今まで何人もの女性と交際してきたが、別れることを想定しながら付き合っていたように思う。恋人を失うことを怖いと思ったことのなかった俺は、環に出会うまで本当の愛を知らなかったのだろう。
今夜、環と連絡が取れなくて感じた恐れや不安は、環なしでは生きられない自分を強く自覚させた。
環と一緒に生きていきたい。そのためにはどうしてもプロポーズにOKしてもらわないといけない。綾子とのことは隠してでも。
弱い俺はまた挫けそうになっていた。
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